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『滝山コミューン一九七四』原武史(講談社)

滝山コミューン一九七四

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学園は天国でしたか?」

  作詞家の阿久悠が亡くなった。追悼番組では70年代のヒット曲が次々と流されていて、この曲もあの曲も阿久悠だったのかと驚かされる。さらに驚いたことに、ぼくはそれらの曲をほとんど空で歌えるのであった。70年代は小学校から高校卒業ぐらいまでに当たるが、その10年を象徴するものの一つが阿久悠の歌だったわけだ。

 本書の著者で歴史学者原武史さんにとって、70年代の思い出は歌謡曲ではなく「滝山コミューン」だ。滝山コミューンというのは、西武線沿線に建設された滝山団地近くにあった滝山第七小学校のことで、当時、そこでは、民主主義的な教育を目ざした教師と子供の親たちによる濃密な共同体ができていたという。しかし、全国生活指導研究協議会、略称「全生研」の指導理念に基づく集団主義的な教育は、少年の原さんにとっては、偽善に満ちたものとして映る。「出来レース」でしかない委員会選挙、競争で行われる班活動と連帯責任、集団の理想に反する行動を取る班や個人の糾弾。それは皮肉にも戦前・戦中の軍隊みたいな世界であった。原さんは、どうしてもなじむことのできなかった滝山での体験を圧倒的なディテールでもって再現していく。

 一般に、1972年が日本社会の転換点であるとはよく言われるところである。その年は連合赤軍事件、日中国交回復、沖縄返還があった記念すべき年だ。井上陽水が、都会での自殺者よりも政治よりも自分にとって問題なのは「傘がない」ことだと歌ったのもこの年。政治の季節はこの年を境に急速に収束していくというのが一般的な歴史観である。しかし、原さんによれば、73年、74年も政治の季節は続いたという。じっさい、この時期、衆議院選挙では共産党が躍進していたし、日教組も権力と鋭く対峙していた。そういう歴史的な連続性を強調しようとしていることと、『滝山コミューン一九七四』という書名が坂口弘の『あさま山荘一九七二』を思わせるものになっていることはおそらく偶然ではない。

 原さんは歴史学者だから、みずからの個人的な体験を歴史的なパースペクティブのなかで描き出すことになるのだが、おもしろいと思うのは、歴史家として語るという意識が、ときに意図せざるユーモアを生み出している点である。たとえば、次のような一節。

「七小で4年5組が台頭する時期は、日本の政治においても革新勢力が躍進し、保革伯仲の状況が生まれることで、変革への期待が高まる時期に当たっていた」(68頁)

 「私の予感は当たった。6年5組の児童は、それぞれの委員会で掲示委員会と同様に立候補の「方針」を読み上げ、十一ある各種委員会委員長のポストを思惑どおり、ほぼ完全に独占したのである。

 春闘はこのころ、最大の山場を迎えていた」(142頁)

 4年5組とか6年5組とかいうのは、滝山コミューンを主導する意欲的な若手教師が担任をしているクラスのことで、このクラスが民主主義の美名のもとに滝山七小全体を支配していくことになるのだが、このあたりを読んでいて、思わず笑ってしまった。4年5組が「台頭」したり、6年5組の児童が「方針」を読み上げ、ポストをほぼ完全に「独占」したりするという言い方には、むろん当時のクラス運営への皮肉が込められているわけだけれど、描き方が少しばかりドラマチックすぎて、なんだか可笑しいのだ。滝山コミューンというと、それらしいが、(こう言っては失礼だが)要するに滝山七小の話にすぎないからだ。滝山七小の出来事が保革が伯仲する政界やら春闘やらと同一の資格で言及されるのは、やはり滑稽だろう。

 原さんが記す滝山コミューンはかなり息苦しい場所である。その点、滝山コミューンという閉鎖空間からの逃れの場として、進学塾で有名な四谷大塚が救いになったことを正直に告白しているエピソードに来ると、原少年の伸びやかな声が聞こえてくるようだ。正確に言うと、原少年が四谷大塚に救われたのは、そこでの勉強が楽しかったというよりも、通学途中、新宿駅を通過するときに「松本ゆき普通423列車」を眺めることができたり、中央線の快速に乗ることができたからだ。原少年は鉄道オタクだったのである。だから、原さんは、滝山コミューンの最悪の思い出となった夏の林間学校へバスを使っていくことになったときに、林間学校成功のための準備に余念のない同級生たちを冷ややかに眺めながら、どうせだったら「松本ゆき普通423列車」で行きたかったのに、などと身勝手な夢想にふけることになる。子供らしい思い出が語られていることに、読者であるぼくもほっとする。そして、じっさい、原さんにとって、滝山コミューンへの違和感の根源は、大人の真似っこをさせられて「子供が子供らしく」いることができないことにあった。

 原さんはぼくと同世代である。ただし、原さんの思い出とぼくのそれとはあまり重ならない。原さんにとっての滝山コミューンがディストピアであったとするなら、ぼくが通った茨城県石岡市立東小学校(という名前なのです)は牧歌的なユートピアであった。そういえば、73, 74年頃に沖縄出身のフィンガー5の歌が流行っていた。ぼくはいまでも阿久悠が作詞した彼らの「学園天国」を歌うことができる。

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