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『母の声、川の匂い----ある幼時と未生以前をめぐる断想』川田順造著(筑摩書房)

母の声、川の匂い

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名前のなかの記憶

 ぼくがこの本に出会ったのは、この川田の本にも名前が出てくる陣内秀信『東京の空間人類学』や、鈴木理生『江戸はこうして造られた』、富田和子『水の文化史』中沢新一『アースダイバー』四方田犬彦『月島物語』(復刊『月島物語ふたたび』)といった本への興味の延長上にある。キーワードは、江戸・東京、川、下町といったところだろうか。 


 文化人類学者で、本書の著者の川田順造が生まれたのは、東京・下町の代名詞といっていい深川。川田は8歳までこの地で暮らした。深川は、隅田川小名木川をはじめ、無数の川と運河が縦横に流れる場所である。

 深川は昭和以降に二度の喪失を経験している。東京大空襲のときが一度目。この空襲で川田の叔母と従姉も亡くなったという。二度目は、戦後の高度経済成長以降、運河のいくつかが埋められたり、川の両岸がコンクリートで固められたりして、人と川との有機的なつながりが失われた時である。川田が語るのは、いまは失われた戦前の深川である。

 

この頃ではもう話す人も少なくなった東京下町風の、軽く鼻に抜ける人なつこい喋り方で、「見(め)えない」「低(しく)い」そんな下町ことばも混る母の声を思い出の中できいていると、私には、家の前の小名木川の匂いがよみがえってくる。川ともいえないちっぽけな運河で、行徳の塩を江戸に運ぶために徳川家康が開鑿させたものだ。母が子どもの時分にも、塩の叺を積んだ塩舟がよく来て、家の前で揚げて荷車に積んで行ったという。姉の小学校の同級生の、夜店通りの豆屋の恭子ちゃんのおばあさんも、行徳の塩造りの家からお嫁に来た。祖父が小さい頃には、家の前の小名木川で蜆がとれたらしい。

 これは、川田が思い出として語っている小名木川の風景であるが、この一節を読むだけでもいろんなことがわかる。引用文中の行徳は千葉県行徳のこと。かつては塩の産地であった。千葉の行徳と深川は、いまは電車あるいは車で行き来するのがふつうだろうが、昔は塩も野菜も川を通じて深川へ運ばれていた。運ばれたのはモノだけではないこともわかる。お嫁さんも来たのである。当時は、千葉の行徳ばかりでなく、埼玉の川越や茨城の潮来利根川を遡って群馬あたりまでは、無数の川や運河によって結ばれた一大ネットワークを作っていて、水の縁で、深川へお嫁に来るもの、家督を継ぐために養子に来るものなどがいたという。

 しかし、この本は、幼時をすごした深川という「地」の思い出のみを語った本ではない。川田が、副題に「未生以前をめぐる断章」という部分をつけているのは、自分が生まれる以前のこと、つまり川田家の由来についても語っているからである。つまり、これは「血」についての本でもあるのだ。川田が生まれた家は江戸時代から八代続くお米屋さん。名前を上州屋といった。上州という言葉から分かるように、八代前のご先祖さまは、群馬県沼田市の一部になっている旧川田村の出身である。利根川から江戸川へ入り、江戸川から小名木川へと入り、江戸の下町へとやって来たという。

 

八月の暑い東京で、私は江戸以来「諸国の掃き溜め」でありつづけたこの都市の、先祖が八代棲みつき、私も八つまで育った一隅に行ってみた。そして私のことを下町風で、大人になってもちゃんづけで「順ちゃん」と呼んでくれたり、昔の屋号の「上仙」(上州屋仙之助---(筆者注)仙之助は川田順造の父)のせがれとして思い出してくれる人たちと、何十年ぶりかでことばを交わした。

 この一節には、深川という「地」に住む人びとだけでなく、父とのつながり、さらには、上州屋を代々継いできた人とのつながりが語られている。川田は、文化人類学者として、つまりひとりの「個」として生きてきた人である。深川を8歳で離れてからは千葉の市川に住み、長じて文化人類学者になってからはアフリカやフランスなどにも住んだ人だ。彼にかぎらず現代人は、幸か不幸か、「地」だの「血」だのを強く意識せずに生きている。川田はこの本の最初期の原稿を50歳直前から発表しているが、その年齢までは、「地」も「血」も、振り返るよりは、振り捨てていくべきものとして考えていたのであろう。

 「血」のつながりの意識、ということで思い出すのは、安岡章太郎『流離譚』の冒頭の、こんな話である。

 まだ昭和10年代の半ば、安岡の家に、東北から親戚だと名乗る者がやってくる。安岡の家はもともと土佐であったが、戊辰戦争の頃、新政府軍に従って戦死した安岡の本家のほうの末裔を章太郎の家では「奥州の安岡」と呼んでいたので、「あなたがご本家の…」と聞くと、「はい、安岡です」と答えた、その人の「やすおか」の発音に「おかしな感動」を覚えたというのである。東北の人は「やすおか」を発音するとき、「か」あるいは「おか」にアクセントを置き、しかも「やす」は「やし」に近い音で発音されるのに、この本家の人は、この「やすおか」という名前だけ、「や」にアクセントを置いた土佐訛りで発音したからである。土佐から流れていき東北に住み着いた安岡の本家の末裔は、南国の訛りを寒冷の地においても記憶していたのである。安岡は言う、「東北弁のなかでその訛りをきくと一瞬、私は寒流のなかに暖流が流れこんできたときのように、生温いもので全身を包まれる気がしたものだ」と。

 川田はこの深川の思い出を書くにあたって、旧川田村まで訪れている。それは文化人類学者らしい調査の仕方でもあろうが、たぶん、この本の根底には、自分がどこから来て、どこへ向かおうとしているかという問いがあるのだ。そのような問いを立てたとき、川田は、「上仙のせがれ」として思い出してくれる人たちとの出会いによって、「寒流のなかに暖流が流れこんできたときのように、生温いもので全身を包まれる」ような体験をしたのではないか。「やすおか」のイントネーションと発音に、歴史が保存されたように、「上仙台」という名前にも「川田」という名前にも、「上州」の「川田村」から川を通じて江戸へと流離してきた者たちの歴史が記憶されている。

 川田は、深川が、松尾芭蕉や平賀源内、不遇時代の間宮林蔵など「風来坊」的な性格をもった居住者を包み込む場所であったと書いている。彼は深川をそう位置づけることで、そのような人たちの姿に自分をそっと重ねているのだ。老境に入った川田が、こんなふうなことを考えるようになったのは、時間の彼方へと流離していった先人たちと同様、自分もまた川の流れのように未来へと流れ去ってしまう「流離する者」であると意識しているからなのだろう。

 この本には、貯木場で聞こえた「木遣り歌」の話とか、和船を作る職人の話とか、水の文化と密接に関わっていた時代の話がたくさん出てくる。そこに出てくるモノの名前や風俗のいくつかをぼくは知らなかった。ぼくの無学を度外視しても、それほどに、かつての「水」の文化は失われてしまったのだ。

 しかし、昔の街並みや風景は消えても残るものがある。それは名前だ。渋谷や四谷という名前には、そこが低地であった(渋谷や四谷では地下鉄を地上で見ることができるのはそのためだ)という記憶が保存されているわけだし、深川という地名には、「川」の、そして「水」の文化の痕跡が刻印されている。そして、川田という名前にもまた。

 地名は雄弁である。いまアットランダムに東京のいくつかの地名を思い浮かべてみよう。八丁堀、谷中、八重洲、潮見、日比谷、築地、入船、蔵前…。地名には、その地の歴史的時間が刻み込まれている。大岡信の名詩「地名論」が言うがごとく、「奇体にも懐かしい名前をもった」「土地の精霊」は「時間の列柱」となって私たちを包んでいるのである。


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