『英語の冒険』メルヴィン・ブラッグ著、三川基好訳(講談社)
「多国籍企業「イングリッシュ・カンパニー」社史」
筆者はふだん、英語文学、英語学・言語学、英語教育といった分野の本を編集する仕事をしている。たまには本業に近い本も選んでみよう。
取り上げるのは、英語業界では「英語史」と言われる分野の本である。邦題は原題“The Adventure of English”をそのまま訳している。「英語」はこの本では、「冒険者」という「人間」に擬せられているわけだ。副題にもThe Biography of a Language、つまり、ある言葉の「伝記」とある。
それでは、この英語という人物はどんな人生を送ってきた人なのか。この本は「伝記」ということだから、著者の意図をさらに拡大して、英語を以下、「英(はなぶさ)クン」と呼び、筆者なりに本書の概要を説明しよう。
生まれは北海に面する、いまのデンマークあたり。ここにはゲルマン民族の一部族であるところのアングル族、サクソン族、ジュート族などが住んでいて、英クンはその部族の子供として生まれた。いつもぶつぶつひとり言を言っているような独語クンとは縁戚関係にある。5世紀半ば、英クンの一家は、民族の大移動の時期に、いまのイングランドにあたる地域へお引越し(その地にいたケルト君には迷惑な話ではあった)。その地で支配的な権力をもつようになる。
ところが、1066年、英一族の遺産は自分がもらうことになっていたといって、フランスから、あまり仏心などなさそうなノルマン系の仏語クンがイングランドにやってきて、英クンを追い出しにかかる。それから何世紀かが、英クン一家の最大の危機の時代になる。ただし、英クンには強い味方がいた。英クンと身近なおつきあいをしていた一般民衆だ。やがて、イングランド内部のナショナリズムの高まりなどにも後押しされるようにして、英クン贔屓は徐々に増えていった。
そして、あとは右肩上がりのサクセス・ストーリーである。16世紀から17世紀にかけて、国内だけでは足りなくて、英クンはまずアメリカへと進出していき、さらにその後も、オーストラリア、カナダ、インド、アフリカ各地、カリブの島々など、ほかの地域へも進出していく。そして、英クンは今や誰もが認める世界の大立者である。
英クンの伝記はざっとこんなところだ。サクセス・ストーリーがすべてそうであるように、一番の読みどころは、たぶん、仏語クンに苛められたあと、次第に力をつけて、地獄の底からはい上がってくる時代だろう。聖書をとおして直に神の言葉に触れて欲しいと願ったウィクリフ、ティンダルといった人たちが、処刑を覚悟しながら、聖書を英語に訳していた時代から、いまも上演され続けているシェイクスピアが登場する時代あたりまでが、とくにワクワクするところだ。日本では、英語聖書というと、1611年に出たAV(アダルトヴィデオでもオーディオ・ヴィジュアルでもなく、これはAuthorized Version, つまり欽定訳聖書の略語)が高く評価されているけれども、えらいのは、先駆者たるウィクリフとティンダルで、著者のブラッグさんもそのことを強調している。そういえば、日本の聖書学者、田川建三さんが、名著『書物としての新約聖書』のなかで、AVばかりありがたがる日本の英語学者を批判していたことを思い出す。
逆に、英クンが植民地政策の片棒をかつぐようにして、インドとか、カリブ諸国とかに広がっていくあたりになると、英クン、ちょっとあなた、調子こいてるんじゃないの?と言いたくなってくる。大英帝国、ついでアメリカの強力な支援者となった英クンの覇権のかげで、ほかの言語がどんどん押しやられたり、弱小言語がどんどん消えていったりしている現状をみていると、判官贔屓も働いて、つい英クンの増長ぶりが苦々しく思えてくる。
英クンの伝記作者たるブラッグさんも、そのあたりのことには十分意識している。ブラッグさんはこの本を英語(少し辛くなってきたので、「英語」に戻します)で書いているが、ご本人の出身はイギリスではあっても厳密にいうとスコットランドである。この地はイングランドと英語に対しては強烈なライバル意識を持っている土地柄だから、英語に対しても、批判的な姿勢を持っているのである。英語以上にスコットランド語を大事にしたスコットランドの国民作家ロバート・バーンズ(「蛍の光」の歌詞を作った人です)の話になると、つい熱っぽくなったりもするし、ずばり「英語が殺した言語」というセクションもある。この本は、その意味で、バランスの取れた本であって、かつて1989年に邦訳が出たロバート・マクラムほか著『英語物語』(文藝春秋)と同様、英語の歴史を社会や文化との関係できちんと解説した良い入門書、啓蒙書と言っていい。
それにしても、一部族の言葉でしかなかった英語は、なぜに、かくも世界的な言語となったのかといえば、歴史をみれば明らかなとおり、英語国であったイギリス、ついでアメリカの、世界における政治的、経済的、文化的、軍事的な覇権によるところが大きい。さらに、ブラッグさんは、イギリスの代表的な英語学者であるデイヴィッド・クリスタル教授(イギリス最大の輸出品たる英語の理論的守護神とも言うべき人)の意見として、英語の「強さ」はその「雑種性」「多国籍性」という性格にも関係があるのではないかという説を紹介している。つまり、もともとゲルマン語の一部として生まれた英語は、やがてフランス語の強烈な影響を受け、その後この言語が世界に広がっていくなかで、スペイン語や、ヒンディ語や、あるいはアフリカの諸言語、ネイティヴ・アメリカンの言語、さらには日本語の語彙(津波は英語でもtsunamiだ。むろんサザンオールスターズのヒット曲以前からの語彙である)まで吸収したために、どの国の人にとっても馴染みやすい性格を持つことになったのではないか、というのだ。
しかし、筆者は個人的にはこういう理屈を好まない。そもそも、英語の雑種性とは、「結果」の産物であったはずだし、結果を原因と取り違えてはいけないのではないか。それに、こういう理屈はどこかで聞いたことがあるような気もする。たとえば、アメリカは多民族国家であり、世界各地からいろんな人たちが集まってきて作られた雑種的な国家であるがゆえに、ほかのどの国々よりも、いろいろな民族の利権を調整した、民主主義的な結論を出すことができる国家なのである、というような理屈である。なんとなく胡散臭い。
とはいえ、英語が世界中に広がったことだけは事実であるし、英語はいまやEnglishではなく複数形のEnglishesとして語られるようになってきた。現在の英語の位置を的確に比喩化するためには、「人」よりは、多国籍企業の比喩のほうがふさわしいかもしれない。この本も、伝記というより、英語という会社の社史と考えたほうがいっそわかりやすいかもしれない。不満分子を追放した過去の負の歴史にも触れつつも、会社そのものの存立を揺るがすような過激なことは書かないのが社史の限界である。この本の、予定調和的で、穏健かつ温和な記述にたいしてうっすらと感じていた不満も、この本は巨大多国籍企業「イングリッシュ・カンパニー」の社史だと思えば納得がいく。
最後に。この本はすでに2004年にアーティストハウスから単行本として出版されたものである。この文庫本の末尾には単行本版のあとがきがそのまま付いている。文庫本オリジナルの「あとがき」がついていないのは、訳者の三川さんは昨年10月、57歳にして亡くなってしまったからだ。三川さんはミステリ翻訳家として知られたが、ご専門は英語史や辞書史であった。この本には、『ベオウルフ』、『カンタベリー物語』、各種聖書、シェイクスピアから、マーク・トウェインといった作家まで、いろいろな英語の引用がある。通常、この手の翻訳は既訳によるのが普通だが、古い英語や中世の英語にも通じていた三川さんはすべて自前の訳文で通している。あっぱれである。この文庫本が出た同じ4月には、三川さんの翻訳した、クレイグ・クレヴェンジャ-の『曲芸師のハンドブック』が出た。2冊とも死後出版ということになる。