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『若き高杉一郎 改造社の時代』太田哲男(未来社)

若き高杉一郎 改造社の時代

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先輩だったかもしれない人

 最近、戦後日本を代表するノンフィクション作品を生み出した2人の作家の伝記が、出版界の片隅で、ひっそりと出版された。1冊は、上野英信の伝記『闇こそ砦』(川原一之著、大月書店)である。みずからも炭坑夫として働きながら、『追われゆく坑夫たち』『出ニッポン記』『眉屋私記』などの傑作を、文字通り地を這うようにして綴った上野には径書房から著作集もあるから、案外、ファンは多いかもしれない。


 その点、今回本欄で紹介する『若き高杉一郎』の主人公、高杉一郎については、いま、どのぐらいの人が知っているのだろう。いささか心配でもあるので、簡単に紹介しておこう。

 高杉の代表作は、なんといっても、シベリア抑留体験を描いた『極光のかげに』(1950年)である。スターリン時代下での収容所体験を描き、左側からは悪質な反共宣伝と批判され、右側からはロシア人民への共感的な視線から親ソ的とも断罪された作品である。また、高杉は戦後になってから、大正期に滞日したロシアの盲目のエスペランティスト詩人エロシェンコの全集を編集したり、アグネス・メドレー、ツヴァイクなどの翻訳でも活躍した。高杉には児童文学者としての顔もある。キャロルの『不思議の国のアリス』や、フィリッパ・ピアスの翻訳があるほか、筆者のいる研究社にも著作が1冊だけある。『クマのプーさん』の注釈本だ。なお、高杉一郎ペンネーム。本名は小川五郎。

 本書は、その高杉が戦争に行くまでの「若き日々」を描く伝記である。高杉は、1944年に応召されるまで、改造社という出版社の編集者であった。 

 高杉の改造社入社は昭和8年。同じ年の入社試験に合格した3人というのがいずれも綺羅星のごとき才能の持ち主だ。ほかの2人とは、慶応からやってきた石橋貞吉、のちの山本健吉と、もう1人は檀一雄(ただし、のちに入社を取り消される)である。俊秀が集まるのは当然のことだ。なにしろ、改造社といえば、昭和初年に「円本」(「現代日本文学全集」63巻)を大当たりさせる一方で、『中央公論』と並ぶ戦前の代表的な総合雑誌『改造』の版元として、自由主義的、ときに左翼的な論説なども掲載するような、花形の出版社であったからだ。改造社は、昭和8年、文芸雑誌『文藝』を出版する。高杉は、最初はその編集部員として、のちに、その第3代編集長として(初代が徳広巌城、のちの私小説作家・上林暁であるというのだから、これまた恐れ入る)、中條(宮本)百合子、中野重治三木清ら、当時の一線級の作家・知識人と親交を結び、海外の反戦的な作品の翻訳・紹介も積極的に行なった。

 太田が引用している高杉の文章のなかで、いかにも編集者らしい回想だなあ、と思ったところがある。

 

私はあらゆる編集者に特有な、あの同時にさまざまな世界をのぞくことのできるふしぎな複眼を完全に身につけていた。私は、島木健作村山知義の転向文学も、小林秀雄河上徹太郎の評論も、中条百合子中野重治の小説も、おなじような距離からおなじ程度の関心で読む技術をいつのまにか覚えこんでいたし、ソヴェトの同伴者文学にも、ドイツの亡命者文学にも、あるいはフランスの行動主義文学にも、おなじように注目する習慣を身につけた。(中略)だから、保田与重郎が昭和十一年に『コギト』に「戴冠詩人の御一人者」や「日本の橋」を発表したときにも、私はそのとっつきにくいスタイルと耳なれない語彙にすこしの不平も言わないで、謙虚にこれを読んだばかりでなく、あくる年の『文芸』には、三号にわたって彼の「明治の精神」のために大きなスペースをさいた。

保田与重郎は日本浪漫派の批評家。高杉とはあまりに思想傾向において違うはずだが、こういうことを書く高杉の気持ちは雑誌編集者の後輩としてたいへんよくわかるような気がするのである。雑誌編集者はその人が語っている思想の「内容」もさることながら、その人の書く文章や文体、あるいは、その思想が備えているある種の「パワー」や「熱」のようなものに引かれるものだし、またそうでなければ雑誌はやせ細ってしまう。上の一節は、高杉の思想的な無節操ではなく、編集者としての幅の広さや、人間としてのふくらみをこそ表していると思った。

 高杉が編集者として生きた昭和8年から19年は、言うまでもなく、戦争の影が色濃く落ちていた時代である。高杉がその閉塞的な時代に対峙し、それに打ち克ったかといえば、それはそうではなかった。

 編集者にはバランス感覚が必要だと言われる。バランス感覚というと聞こえはいいが、左と右を見て、その間のどこかに自分を位置づけようとする習性のことである。だから、時代が動いて、人びともそれに合わせて動いていくと、人と人の間に自分を位置づける習性が身についている編集者は、結局は、時代の動いていく方向へ流れていく。

 本書で筆者が興味深い箇所だと思ったのは、高杉の編集者としての「光」の部分ではなく、じつはそういう「影」の部分である。高杉は、太平洋戦争が始まったときのことをこう回想しているという。

 

日本が中国に侵略戦争をおこなっていたかぎり、私たちは惰性的で無気力なものであったにせよ、抵抗意識をもちつづけたのであった。

 ところが、やがて戦争がヨーロッパに飛火し、それがふたたびアジアにかえって、日本が昭和十六年の暮についにあの絶望的な太平洋戦争のなかにとびこんでいくと、私たちは一夜のうちに自己麻酔にでもかかったように、抵抗意識をすてて、一種の聖戦意識にしがみついていった。

 当時、軍報道部や情報局のおぼえがよくなかった改造社は生き延びるために、戦時体制の指導的な評論家を編集顧問に選んだりしていた。彼らから受けた「再教育」は、ひどい侮辱と感じられたものも多かったが、誰ひとりこれに抗議せず、むしろ、「みずからも仮面を合理化できそうなもっともらしい理論には、よろこんでとびついていった」とも高杉は語っている。リベラルな作家たちにもなんとか誌面を提供しようとしていた高杉までがなぜ、という思いに囚われてしまう。

 太田は、上のような高杉の意識を分析するにあたり、中国文学者の竹内好が戦後書いた「近代の超克」論文を援用して解説している。中国に対する侵略戦争を仕掛ける日本は、多くの知識人にとっては批判すべき対象でありえたが、しかし、泥沼化する中国戦線の「打開」のために、対米英戦争が開始されたとき、その戦争は日中戦争の「侵略的性格をおおいかくすもの」となったという。

 くわえて、高杉は、『文藝』の編集者として、中国と日本の作家の往復書簡を雑誌に掲載するなど、中国文学者には格別の思い入れのある編集者であった。それがゆえに、「義」ではありえない日中戦争は彼にとっては人一倍苦しみの源であったはずである。そして、太平洋戦争が始まり、ほんとうの敵は中国ではなく、中国を支援している米英である、となったときに、高杉はそこに「仮面を合理化できそうなもっともらしい理論」を見、「一種の聖戦意識にしがみついていった」のである。対米英戦争への熱狂の裏側には中国に対する侵略戦争への良心の呵責がはりついており、そこには「二重にも三重にも屈折した」(竹内好)心理があったという。

 竹内は、「一九四一年から四二年にかけての知的雰囲気を今日復元することのじつに困難であるのを感じる」と書き、多くの知識人の当時の屈折した心理を分析するにあたって、ほかならぬ高杉の文章をサンプルとしていた。これは別の言い方をするならば、高杉がみずからの蹉跌をほかの誰よりもきちんと本のなかに書き込んでいるということだ。過去をただ懺悔するのではなく、過去を正当化するのでもなく、なぜ、そのとき、自分はそのような判断をしたのか、と高杉は冷静に問い続けた。高杉の回想は、のちの時代を行く者にとって重要な証言となったと言える。そして、歴史のなかで起こったことに対する謙虚で冷静な観察と反省こそ、出版から半世紀を超えてなお『極光のかげに』を多くの人に読み継がれる名著とした理由であった。

 

 本書で初めて知ったことがある。高杉は東京文理大在学時代、その左翼的な思想を疑われて退学となった。そのため、決まっていた出版社の就職をふいにしてしまった。それで、というので受験して合格したのが改造社であったという。そのことが高杉ののちの人生にとって幸せなことだったかどうかはわからない。しかし、内定を取り消してしまった会社にとって、ひとりの優秀な人材を失ったことは間違いない。その出版社の名前を研究社という。 


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