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『東大入試 至高の国語「第二問」』竹内康浩(朝日新聞出版)

東大入試 至高の国語「第二問」

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「ずるい本」

 ほんとうはこの本、筆者が書評に取り上げるべきでないのだろう。


竹内氏は筆者の大学時代の同級生であり、テニスのお師匠さんであり(「お、あべ~、スピンかかるようになったじゃん!」というような青春のひとコマがあった)、しかも本書には著者の文章が引用されてもいる。これではいかにも、内輪褒め・提灯持ち・我田引水・利権てんこ盛り型書評の典型である。

 たしかにそうかもしれないのだが、この本、正直言って、いろいろ叩かれそうな気がするし、しかし、自分こそがこの本の「いい感じ」をわかってもいるという妙な自信も今回はあるので、どうぞ勘弁してもらいたい。そういうインチキ書評は読まない、という正しい感覚を持っている方はどうぞ読まないでください(最近、偉い先生の書評は、そういうインチキがけっこうありますからね)。

 実に変な本である。タイトルからして、すばらしく格好いいけどまったく意味不明。つい頁をめくると、突然「人生の難問なんて、死ぬこと以外、他にいくつあるだろうか」と信じられないほど直球の文章がつづく。しかし、この時点でもまだ意味不明。それからいよいよ東大入試の話となる。焦点は国語の問題、それも「第二問」だという。

 じつは1999年まで東大入試現代文の第二問は、「二百字作文」として知られる独特の問題だった。文章の一節を読ませた上で、受験生の感想や考えを問うという形式で、見るからに採点がたいへんそうなわりに、たぶんあまり差はつかない、そんな実に高潔な問題だった。だからこそ、入試の顔ともなる。本書の縦糸となるのは、言ってみれば(しかし、竹内はそんな野暮な言い方はしないのだが)「東大入試現代文の第二問の歴史性・文化性・象徴性を問う」というようなテーマだ。竹内はこの「至高の第二問」の歴史を30年ほどにわたって検証し、それがいったい何を問題にしてきたか、そこに注目すると、いろいろと見えてくることがあると主張する。

 最初にとりあげられるのは、1985年3月に出題された「金子みすゞ」の「積もった雪」および「大漁」というふたつの詩作品である。設問は次の通り。「次の二つの詩は同じ作者の作品である。二つの詩に共通している作者の見方・感じ方について、各自の感想を一六〇字以上二〇〇字以内で記せ。(句読点も一字として数える。)」

「積もった雪」

上の雪

さむかろな。

つめたい月がさしていて。

下の雪

重かろな。

何百人ものせていて。

中の雪

さみしかろな。

空も地面(じべた)もみえないで。

「大漁」

朝焼けだ小焼けだ

大漁だ

大羽鰯の

大漁だ

浜は祭りの

ようだけど

海のなかでは

何万の

鰯のとむらい

するだろう。

 この詩をどう読むか。竹内は、齋藤孝らによる、受験あんちょこ本の解答をひいた上で、「声無きものの声を聞く」といったような模範解答に潜む「いい人コンテスト」的な態度を批判する。そして、ほんとうに大事なのはもっと注意深く詩行を読むことだとし、レディメイドの「感想」とか「同情」に走ることなく、作品の構造をしっかりととらえることの重要性を解く。その結果出てくるのは、「見えないものに対する想像力」といった安っぽい倫理性ではなく、「お互いがお互いの不幸を呼び寄せているという連鎖」の認識だという。こうして本書における「死」との対話がはじまるのである。竹内の読解はあざやかで、構造分析とはそういうものか、と思わせてくれる刺激に満ちている。つまり、本書の今ひとつの重要な側面は、実践テクスト分析練習帳としての啓蒙性である。

 この辺までくると、あ、と思うひともいるかもしれない。若くしてサリンジャーに関する先鋭な研究書を二冊も出した竹内は、英文学研究の基本をしっかりと体得した読み巧者としても知られてきた。こうしてみると、その批判の手際や、うまく距離を置きつつしっかりとテクストの本質を射抜く洞察に、竹内の「英文学性」が与っていることは間違いない。

 しかし本書は、いたずらに読みにくい文章で難しげに偉そうに「イデオロギー批判」を展開する悪しき英文学性に陥ることはない。それどころか、竹内の文章は誘惑的なまでに読みやすく、まるで「あたしのこと、ほんとうに好きなの?」という問いに答えぬまま事を進める紳士みたいに、いつの間にか頁を繰る手は止められない、ということになっている。

 念のため断っておくが、竹内は――私の知る限りは――まったくディーセントな快男子。でも、この本、ずるいなあ、と思うのは、最後まで読むと著者のことを好きになるようにできているのだ。

 その秘密のひとつをばらしておこう。なぜ、本書が1985年の入試から話がはじまるのか?ということを考えなくてはならない。ここで同級生としての筆者の知見が生きてくるのだが、要するにこの問題、竹内が受験生として解いた問題なのである。同じ年に入試を受けた筆者も、この問題のことは覚えている。たしかに印象は強かった。

 なぜ、そんなことが重要になるかというと、本書の出発点はここにある、つまり、この本は自伝だということなのである。あとがきにもあるように、竹内は高校生の自分自身に向けて語りかけている。だから嘘も、てらいも、ない。恥ずかしいほど愚直で青臭く見えるかもしれない問題系(「自分を見つめる」「常識を疑う」「自然によって「生かされている」という負債感」などなど))を、驚くほどのスリリングな手つきで扱い、それを青臭くも愚かにも感じさせないのは、竹内がどこかでこの問題を、自分で、生きているからなのである。だから、同じようにこの問題を生きる余力を残している若者に、これほど素直に語りかけることができる。

 書く、ということについて、そんな当たり前のことをあらためて考えさせる本である。

 この本を読んで、その断定調が気になる、という人がいるかもしれない。たしかに竹内は、多くの構造分析者とちがって、真っ向から対決を挑んでくる。そんなにまともに言ったら、自分が構造分析されちゃいますよ、と言いたくもなる。しかし、書くことを生きるとはそういうことなのかもしれない。まるで小説のようなのだ。だから、前半の勢いが、後半ちょっと衰えても、そこは赦してやってもいいでしょう、という気になる。

 それにしても不思議な本だ。圧倒的な筆力で読ませるわりに、最後まで目的地がわからない(受験参考書? 受験批判? イデオロギー批判? 文化批評? テクスト批評? 文章読本? 死生学入門? 倫理学研究?)。しかも対象としているテクストは東大入試現代文「第二問」という、永遠に「著者」の隠されたテクストなのである。しかし、おそらくはそこがこの本の魅力。書き手としての才能に恵まれながら、純粋英文学研究の枠内ではつねに居心地の悪い思いをし、下手をすると英文学から逃れて車の中でサンドイッチをつまむような運命を生きながら、書き続けていくしかない竹内の姿がそのまま投影されているのだ。だまされてみる価値はあると思う。


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