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『ソラニン』浅野いにお(小学館)

ソラニン

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「「終わりなき日常」から文化を創造する可能性、あるいは「若者=格差社会論」へのオルタナティブとして」

 本書は、映画化もされた浅野いにおの代表作である。1巻と2巻からなる短い作品だが、今日の若者文化を描いた作品としては、屈指の傑作である。


 ストーリーは、主人公である「東京のどこにでもいるようなOL」(P7)、井上芽衣子のアパートの一室から始まる。芽衣子は、「大学卒業して」「ちょっとブラブラ」(P8)している彼氏、種田成男と同棲中であり、バイトで徹夜明けの彼氏と入れ替えに出勤する。一方の種田は、大学時代の仲間とバンドを結成していて、いつかデビューすることを夢見ているが、やがて社会の波に飲まれていく。そして、夢を断念しようとしたときに「事故」が起こる・・・。

 以降のストーリー紹介はネタバレになってしまうため差し控えるが、全体を通して、とにかく読んでいて切ない作品である。種田の代わりに、芽衣子がボーカルとなってバンドを再結成し、ひたすらに練習に励むシーン、ライブに参加し最後の曲の演奏が終わるシーン・・・などなど、とにかく切ない。個人的な体験で恐縮だが、私はアジアンカンフージェネレーションの名曲『ループ&ループ』を聞きながら、本作のエンディングを涙して読んだ。

 

 切なさのゆえんは、「失われた10年」と呼ばれた1990年代以降、未来の夢も希望も失われた「終わりなき日常」(宮台真司)と呼ばれる日本社会の、その先行きの不透明感の中を、それでも懸命に生きようとする若者たちの姿にある。

 かつて、とりわけ1980年代までの若者文化といえば、ニューメディアの受容や華やかな消費文化の実態など、「時代の最先端」を論じるための格好の対象であった。しかしながら、いまや格差社会やフリーター・ニート問題など、中心的なアジェンダはすっかり移り変わってしまった。

 本作とて、彼氏である種田は大学卒業後も定職につかず彼女の部屋に同棲しており、まわりの仲間たちの社会階層を想像してみても、「格差社会の中で虐げられる若者たち」という読み解きは不可能ではない。

 だが、近年流行のそのような若者論に本作を押し込めてしまうのは、大きな過ちといわざるを得ないだろう。むしろ、格差が拡大し、先行きが不透明化しても、若者文化の創造性それ自体には変わりのないことを本作はまざまざと教えてくれる。やや、引いた目からの解釈になってしまうが、浅野いにおのマンガそれ自体に、そうした創造性が通低しているといってよい(あるいは、アジアンカンフージェネレーションについても、同様のことが言えると思う)。

 『ループ&ループ』の歌詞になぞらえて言うならば、今の若者たち(もちろん、浅野やアジアンカンフージェネレーションもここに含まれる)は、この社会の未来の「最終形のその先を担う世代」にあたる。この社会では夢も希望も失われ、もはや「ペンペン草すらも生えない」ほどに何もなさそうに見える。だがむしろ、そうした社会を生きるという行為そのものを描写することに、浅野は創造性を見出している。いわば、何もかもが失われたかに見える、その現場そのものを描写するということが、何かを生み出す、創造的な営みなのであり、そのことに気づくこと自体がなんとも切なく、それとともにどこか励まされる感じがするのである。 

 本作の紹介として、これ以上、稚拙な筆を走らせるべきではないかもしれない。だが、社会学者としての私の問題関心から、もう一言だけ、述べておきたい。「若者文化は社会のリトマス試験紙」という言い回しがあるように、若者には社会の変化そのものがダイレクトに現れやすい。それゆえに時代時代によって、若者を論じるアジェンダはめまぐるしく移り変わってきた。

 だがそのことは、ともすると若者文化を「落ち着いてきちんと論じること」から遠ざけてきたのではないだろうか。あるいは若者文化を「移ろいやすくて軽薄なもの、真剣に論じるに値しないもの」としてきたのではないだろうか。

 だとするならば、もちろんその時代における中心的なアジェンダはあるだろうが、それだけにとらわれずに、多角的に若者文化を論じる必要がある。今日において、フリーター・ニート問題は看過すべからざる重大な問題だが、それだけにとどまらずに、若者文化の他の可能性を掘り下げる視点があってもいい。

 本作は、私にそうしたオルタナティブな可能性を感じさせてくれた好作でもある。

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