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『一匹と九十九匹と』うめざわしゅん(小学館)

一匹と九十九匹と

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「2000年代を代表する「生きづらさ系マンガ」」

 久しぶりに凄いマンガを読んだ。知り合いの編集者に勧められたのだが、ただちに他の作品を読みたくなった。だが、まだ2作しか刊行されていないという(単行本としては、本作とデビュー作の『ユートピアズ』の2作だけが刊行されている)。


 私個人の受け取り方としては、「生きづらさ系マンガ」として「ポスト岡崎京子」に位置づけられる気がした。

 ここでいう「生きづらさ系マンガ」とは、絶望感を緩和して、生きづらさと向き合うマンガのことをいう。この絶望感との向き合い方について、うめざわしゅんのそれには、今までの作家との明確な違いを感じた。また、そこに日本社会の変化も感じられるように思われた。

 「生きづらさ系マンガ」として、岡崎京子は1990年代を代表する存在だったと思う。そのスタンスは、希望の中に潜む絶望に気がつきつつも、あえてその希望を生きるというものである。周知の通り、初期の作品である『東京ガールズブラボー』で描かれていたのは、消費社会の記号と戯れることの楽しさであるとともに、どこかでそのはかなさに気づく少女の姿であった。だが少女たちは、それでもあえてそのはかない楽しさを生きていくのだ。宮台真司氏がよく指摘していたことだが、彼がフィールドワークをしていたブルセラブームのころ、女子高生に岡崎京子の読者が多かったというのも、うなづける話である。

 だが、後の『ヘルタースケルター』へと至っていくのに従って、その作品世界は段々と暗さを増していく。いわば、絶望の方が希望をのみこんでいってしまうのだ。この変化は、「失われた10年」とも言われた、1990年代の日本社会ともシンクロしよう。

 この点で、うめざわしゅんの絶望への向き合い方は、岡崎京子の真逆に位置づくように思われる。いわば、岡崎が希望と向き合いつつ、その中に実は絶望が存在していることに気づいていたのだとしたら、うめざわは、初めから絶望と向き合っている。むしろ、絶望感あふれる今日の社会と正面から向き合うことで、その中に希望の一筋を見出そうとしているように思われる。

 だから、本作も大変に暗いマンガだ。援助交際、監禁、校内暴力、不登校、コンビニ強盗、殺し屋・・・と、これだけを列挙すれば、なにもいいことがないような、そんな今日の社会の雰囲気を現したマンガであるように思われる。だが、絶望と正面から向きあうがゆえに、「これ以上、悪くもならない」という開き直りのように、どこかに希望も感じられるのが、本作におさめられたエピソードに共通する読後感なのだ。

 こうした2000年代の「生きづらさ系マンガ」としては、以前にも『ソラニン』を評したように、私は、あさのいにおが「ポスト岡崎京子」の一番手だと思っていた。だが、人によっては、うめざわしゅんのほうを高く評価する場合もあるかもしれない。実は、知り合いの編集者にも、「あさのいにおを面白いと感じるなら、こっちも試してみては・・」と勧められたのだ。

 扱う題材の暗さに、万人向けとは言い難いが(とっつきやすさという点では、あさのに軍配が上がるが)、「生きづらさ」を感じる人たちに、ぜひ一度、お勧めしたいマンガである。


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