『東京シャッターガール』桐木憲一(日本文芸社)
「プリコラージュとしての東京」
「東京とは何か?」「それはどんな街か?」と聞かれても、答えに困ることだろう。
そこにはいくつもの特徴があるし、あるいはまた、人によっても感じ方が異なっているからだ。
よくある旅行ガイドの類いを開いて見ても、そこにはいくつものスポットが紹介されている。東京スカイツリー、六本木ヒルズ、渋谷、原宿、お台場、そして浅草や上野といったところだろうか。いわばそこには、「東京」という一つの言葉に収斂されない、「複数の東京」が存在している。
さて、本書『東京シャッターガール』は、そんな「東京の複数性」をフィルムに焼きつけていく少女を描いたマンガだ。
だがマンガといっても、大きな物語に基づいたストーリー性があるわけではなく、一話あたり6ページ程度の短編が集められている。こうした形式は最近のマンガではよく見るものだが、むしろ本書では、登場人物のキャラ設定であったり、ありがちな(ラブ)ストーリーなどに過剰に引きずられずに、「東京の複数性」を味わう上で、大いに功を奏しているように思える。
長編ストーリーマンガに慣れた先行世代からすると、物足りなさを覚えるかもしれないが、慣れてくると、そこにはさわやかさであったり、潔さすらも感じられてくるのだ。
あるいは今日における「都市体験」というものが、大きな物語に基づいた共通性のあるものではなく、まさに本書のように断片化したものになりつつもあるのだろう。
この点において、本書を読みながら「まだ見ぬ東京」「行ったことのない場所」を知らされても、蘊蓄を長々と聞かされたような不快感はなく、機会があったらちょっと「覗き」に行ってみようかなと思わされてくる。
本書を読んでいて一番印象に残ったのは、都電を写そうとした主人公のカメラと、それに乗っていて外を写そうとした少年(玉城君)のカメラが向かい合うシーンだ(第21話 都電車窓)。
主人公とカメラが向き合ったところで、「見事な相打ちだな!」とほほ笑んでこの回は終わるのだが、その前に少年が思い出していた、両親が離婚したつらい過去にはそれ以上深い入りせず、話が閉じられるところがなんともさわやかなのだ。
そこからは、おそらく今日のリアリティもそのようなものだろうと思わされる。互いの内情に奥深く立ち入りはしないし、「自分とは違ったリアリティ(=東京の複数性)」を生きているのだろうけれども、それでも他者がいて、この社会が営まれていることで、どうにか日々を生きていくことができる・・・といった、多元的な現実感に満ちた風景がそこでは描かれている。
昨今では、無理やりにでもオリンピックを招致して、東京を一つにまとめあげようとする動きがあると聞くが、それとは対極に位置づけられるような、「プリコラージュとしての東京」を本作から味わっていただきたいと思う。