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『切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社)

切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

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「「本を読むこと」の恐ろしさ」

 佐々木中氏の語り下ろし作品、『切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』を読もうと思ったきっかけは、この2月に「ビブリオバトル with キノベス」というイベントに参加したことだった。それが縁でこのサイトで書くことになったのだがそれはさておき、そこで『切りとれ、あの祈る手を』を紹介した方がいて、プレゼンの半分以上がなぜか本書ではなく坂口安吾の「日本文化私観」についての話だった。安吾好きが高じてファンサイトまで作ってしまった私としては、「これは読まねば!」と思って買ってみたのだが、本書を読み進めるうちに、「なるほど、だから安吾だったのか」と腑に落ちた。

 本書の内容を一言で言ってしまえば、「暴力による革命は二次的なものであり、革命の本体は文学にある」ということだろうか。

(本書における「文学」は、言葉や文字を使った表現物だけではなく、もっと広い意味で使われている。それは文字で書かれたすべてのテキストであり、ダンスや音楽などの表現をも含むものとして、一般的な語義ではなく、意味自体を書き換え、拡大して使っている。)

 「革命の本体は文学」というとき重要なのは、徹底的にそれを「読む」ということだ。

 佐々木中氏は「読む」ことについて、

本を読むということは、下手をすると気が狂うくらいのことだ、と。何故人は本をまともに受け取らないのか。本に書いてあることをそのまま受け取らないのか。読んで正しいと思ったのに、そのままに受け取らず、「情報」というフィルターにかけて無害化してしまうのか。おわかりですね。狂ってしまうからです。(p. 29)

と書いている。そして、宗教改革(本書では「大革命」と呼んでいる)におけるルターを例に挙げてこう書く。

大革命とは、聖書を読む運動である、と。ルターは何をしたか。聖書を読んだ。彼は聖書を読み、聖書を翻訳し、そして数限りない本を書いた。かくして革命は起きた。本を読むこと、それが革命だったのです。(p. 52)

 ルターはおかしいくらいに──「おかしくなるくらい」に──徹底的に聖書を読み込みます。

(中略)教皇がいて皇帝がいて枢機卿がいて大司教がいて司教がいて修道院があって、みんな従わねばならない、と。でも、何度読んでも聖書にこんなことは書いていない。

 本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか。(p. 58)

 また、イスラム急進主義などを例に挙げ、「イスラーム法をまともに学んだこともない男が勝手にジハードを口にする──」としてこうも書く。

連中は知らないのです。読めるわけがない本をそれでも読むこということ、そのなかにあるテクストの異物性、その外在性、そのなまなましい他者性というものを知らない。その過酷なまでの無慈悲さを知らない。(中略)「俺が言っていることが聖書であり、俺が言っていることがクルアーンであり、俺が言っていることが仏典である」という、もう見るも無様なあり方に自足し切って飽きることを知らない。ゆえに、テクストに向き合うという残酷な体験に自らの死と狂気とを賭けて身を晒すことができない。(p. 116)

 本書で佐々木氏は、ルターらによって徹底的に「読まれた」ものとして、聖書やクルアーンコーラン)といった、始原の物語ともいえる「文学」を採り上げている。

 そこで、ふとこんな疑問が浮かんだ。一見、始原の物語に見える聖書やクルアーンにも、実際には個人もしくは複数の作者、書いた者たちがいる。それらの者が書いた内容を、正統として、そっくり信じ込んでいいものだろうか、と。

 しかし、佐々木氏は、明らかに個人の著作であるニーチェの言葉を引用したあと、こうも書いている。

 しかし、考え、書くという営みに挑もうとするときに、私にはこのニーチェの言葉が忘れられなかった。彼の本を読んだ、というより、読んでしまった。読んでしまった以上、そこにそう書いてある以上、その一行がどうしても正しいとしか思えない以上、その文言が白い面に燦然とかぐろく輝くかに見えてしまった以上、その言葉にこそ導かれて生きる他はない。(p. 26)


繰り返し読むということは、まともに受け止めるしかなくなるということです。そしてそのように生きるしかなくなるということでもある。(p. 33)

 神聖なものであるから、とか、多くの人が信じているから、とかではなく、自分にとって「正しいとしか思えない」から、誰が書いたものであろうと、「その言葉にこそ導かれて生きる他はない」ということだ。そしてその「選んだ本を繰り返し読むしかない(p. 33)」という。

 佐々木氏にとって「本を読む」ことは、「情報を効率よく取り込む」ことなどではなく、「狂気を孕む文学を丸ごと飲み込み、生きる」ということのように見える。

 本書は単なる文学・読書礼賛の本ではない。本を読むことの恐ろしさ、厳しさを語り、その上で、読み込むことによって生まれる読書の愉悦を、丁寧に、慎重に伝えようとしている。かなりくどいクセのある文章だが、語られていることはしごく真っ当で、共感できる部分も多い。

 『切りとれ、あの祈る手を』を読みながら、「その言葉に導かれて生きる」ほど突き詰めて読んだ本なんてこれまであったかな、と考えていた。

 突き詰めたかどうかはともかく、「繰り返し読んできた」と私が言えるのは、坂口安吾の著作ぐらいだ。安吾だけはとにかく何度も、少なくとも全集を3回(正確には3種類の全集を1回ずつ)は読んだ。ただ、私自身は読んだ端から忘れてしまうヘタレ読者なのだが……(おかげで犯人まで忘れてしまうから同じ推理小説を何度でも楽しめる)。大学時代には卒論でも採り上げた(ここ『「桜の森の満開の下」について』に置いているので、安吾に興味のある方はどうぞ)。

 これはまったくの想像なのだが、佐々木氏はけっこう安吾が好きなんじゃないか、なんて気もした。本書の中にも「安吾」という言葉が出てくるし、読むうちに共通点らしきものも見えてきた。

 たとえば、安吾が「文学のふるさと」と呼ぶもの、満開の桜の森に広がる、人々に狂気をもたらす空間と、佐々木氏の書く「読むこと」を突き詰めた先にある狂気は、通底しているのではないか。「文学のふるさと」での「突き放される」感覚と、「テクストの異物性、その外在性、そのなまなましい他者性」「その過酷なまでの無慈悲さ」という感覚。

 また、佐々木氏のいう「文学の勝利」も、相手を殲滅する圧倒的な勝利ではなく、何度も繰り返される変革、安吾が「不良少年とキリスト」で書いた「人間は、決して、勝ちません」ただ「戦っていれば、負けないのです」に近い気がする。長い時間の中でのゲリラ戦、すべてが一時的な勝利、のようなものだ。

 坂口安吾の話はこれぐらいにして、『切りとれ、あの祈る手を』に戻る。

 佐々木氏は、革命の本体は暴力ではなく文学、「テクストを読み、読み変え、書き、書き変え、翻訳」する「テクストの変革」(p. 79)こそが本体だと書き、それはこれまで何度も繰り返されてきたし、これからも繰り返されていくものだとする。そして「文学の終わり」、ひいては「人類の終わり」を云々する終末論が徹底的に否定される。

自分の生きている時代が特権的な始まりか終わりであり、自分の生きているあいだに歴史上決定的なことが起こってくれないと困る、という思考の病んだ形態がある。こういう思考は恐ろしく幼稚なものであり、実はもっとも質が悪い終末論なのだということも指摘しました。(p. 174)

 ここでの佐々木氏は、永遠の時間のなかに人間を置く態度から、個人の存在を過大に評価する態度を見当違いだと否定しているように見える。東日本大地震を例に挙げれば、数百年に一度、大津波によって壊滅的な被害を受けながらも、その都度立ち上がってきた人々の連鎖、そんな歴史的な視点と、悲しみに暮れる個々人のエピソードを中心に、ことさら(先般まで民放で溢れていたような)現状の悲惨さを強調する視点の違いだろうか。

 多分、いま本当に必要なのは、この両方の視点だろう。一回の生を生きるしかない一個人、とくにいま現実に被災し近親を亡くした人々にとっては、「それでも人類は終わらない」という言葉は、空虚で、酷な言葉に感じられるかもしれない。絶望的な現実から目をそらすことはできない。しかし、これから人々が立ち上がろうとするとき、「昔から祖先はこの土地で何度も立ち上がってきた、今度は我々が、そして遠い未来には子孫たちもきっと立ち上がってくれる」という認識が、今を生きる希望を与え、現状の変革を支えていくのではないだろうか。

 おそらく、歴史が個人の連鎖であるかぎり、終末論はなくならない。同時に、人類の歴史が続く限り、文学も終わりはしないだろう。永遠とはいわないまでも、少なくとも(佐々木氏によれば)380万年の間は。

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