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『うつろ舟 ─ブラジル日本人作家・松井太郎小説選』松井太郎(松籟社)

うつろ舟 ─ブラジル日本人作家・松井太郎小説選

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「どこか投げやりで、潔い人々」

 不思議な小説集だった。
 日系ブラジル移民の作品集。一人の移民の苦労を描いた自伝的な作品だろう、なんてことを予想しながら読み始めたのだが、実際にはまったく違った。本書には表題作である中編小説「うつろ舟」と4つの短編作品が収められているが、すべて登場人物や舞台背景が違う。なかには日系人が登場しない作品もあり、あくまで小説、フィクションとして書かれたものであることがわかる。悲劇がそのまま悲劇となっていく出来過ぎのようなストーリーもあるが、描写には説得力があるし、移民文学云々抜きで十分楽しめる作品集だ。

 松井太郎氏はブラジル在住の日本人作家で、19歳だった1936年に家族とともにブラジルに渡り、農業に従事したあと、還暦・隠居を機に執筆を開始、90歳をこえた今も創作活動を続けているという。

 作品を読んで感じるのは、外国文学の翻訳とは違い、明らかに日本語を母語とする者の文章だということ。しかも日本人旅行者の手記とも違う、その地で生活する者の言葉だということだ。描かれる内容、スケールは日本離れしているが、ごく自然に日本の故事などが挟まれ、今の日本の若者でも知らないような奥床しい日本語が登場する。日本人が日本語で会話をしながら、大河をバックにズズズとすするのはコーヒー、みたいな感じかな(実際に話しているのはポルトガル語らしいが)。

 対岸まで数百メートルという大河が流れ、周辺には湿地が広がり、雨期には大洪水が、乾期には数ヵ月も日照りが続く土地。「うつろ舟」の冒頭を引いてみる。

 二日続いて尾鋏鳥の群れが南方に渡っていった。鳥たちの旅立ったどこか遠い地では、天候が変わりはじめているのかもしれない。部屋の土壁に貼ってある絵暦では、すでに冬の乾期は終わって、春を告げるさきがけの雨が来る季節であった。

 州境をなすP河の一支流を、奥深く遡行した果ての辺境では、九十日このかた地表を潤すほどの降雨は一度もなく、水気を含んだ湿原の泥土も罅割れはじめ、日を追うにつれて、喝に喘ぐ獣の口のように亀裂を広げていった。(p. 9)

 主人公は日系人のツグシ・ジンザイ(神西継志)、通称マリオ。

 マリオはちょっとした諍いがもとで妻の一族に家、土地、財産一切を奪われて追い出される。山間の農場に辿り着きその一画を借りて豚飼いをしていたが、農場全体の管理を手伝ってほしいとの誘いを人と関わるのがいやだと断り、山火事をきっかけにそこを逃げ出す。途中、偶然道連れとなった子連れの女と再婚するもすぐに死別、ピンタード(鯰)釣りの漁師になり、やがて養子には裏切られ……というような、日系移民社会から弾き出されたマリオの、河の上を果てもなく流されていくような人生を描いた作品だ。

 マリオをはじめ登場する人物すべてに共通しているのは、投げやりな、諦めにも似た潔さだ。

 たとえば、カヌーで子連れの女と農場を逃げ出したときのこと。マリオは女に巾着袋のなかの装飾品の鑑定を依頼される。それは女の全財産だったが、

「ぜんぶ偽物だな、売れる品物は一つもない」

「えっ」

「かぶせ物で一文にもならないぜ」

 酷であったが、おれはそう言うより仕方はなかった。

「そう──」

 女の落胆ぶりは、風船の凋むのを見るようであった。必死に耐えているようであったが、顔色は蒼くなり、目は吊り上がった。

 女はおれの返した品を、ひとまとめにすると巾着に押し込んだ。その紛い物を彼女がどう処置するかについて、おれは好奇心を湧かしていた。すると巾着はあっさりポイと舟の外に投げられた。

「あっ──」

 おれの方が不意をつかれて軽い叫び声を上げた。波というほどのうねりもない水面に、ポトンと音がして飛沫が上がった。広がる波紋は舟べりを打ったが、すぐに流れのうちに消えてしまった。

「あっ、はっはー」

 女はさもおかしそうに白い歯並みを見せて笑った。

「ねえ、マリオ、万作の糞爺が本物よこすはずはないのに、なぜ今まで気がつかなかったんだろうね。これであんたにお礼もできなくなった」(p. 72)

 この潔さは、他の作品にも共通している。

 「堂守ひとり語り」という伝聞の形をとった短編は、ある男が母親に焚き付けられ、かつての恋敵である隣家の男を殺し、その娘をさらいにいく、という話だ。いよいよ娘を手に入れようと隣家に押し入った男は、娘がすでに縊れているのを見つける。その後何一つ仕事が手につかなくなった男に母親はこう言う。

──読みが狂ったで仕方がねえわさ。お前は極悪のことをしてでも、果たそうとした夢があったじゃないか。おっ母あはなあ、自分のできなかったことを、お前に叶えさせてやりたかっただけよ。諦めるだよ、お前は見てはならぬものまで見てしまったでな。好きなようにするが良い、ただ言っておくがな、虫の良い後生は願わんこったぞ──(p. 284)

 さんざん「極悪のこと」を焚き付けておいて「虫の良い後生は願うな」もなにもないのだが、妙な潔さを感じてしまう。すべて忘れて親子でやり直そう、とか、もう一度頑張ろう、ではなく、諦めがいいというか欲がないというか、なんだろう、この感覚。厳しい風土の中で生き抜くための知恵だろうか。

 とにかく、死が身近にごろごろ転がっているような土地で、あっけなく人が死んでいく。「うつろ舟」から象徴的な部分を引いてみよう。ピンタード釣りの師匠が、その土地の風土をマリオに語る場面だ。

おれたちの仲間で床の上で死ねれば極楽じゃ。たいていの者は旅で死んだ。その場で埋められて木の十字架は立っても、あとは雨や風に曝されるばかり、そして誰からも忘れられるんじゃ。牛の暴走に巻き込まれて、土と血でこねた肉団子のようになったアリンド、牡牛の角にかけられ三メートルも放り上げられ、腸を垂れ流して死んだジョゼ、酒の上で口論し決闘して二人とも死んだ奴らもいる。破傷風でひきつりもがいても手当ての法もない、無法者ぞろいが肩ひじをはり、思いのままのことをしておったが、みんな消えていきよったわい(p. 105)

 農場の管理者に、という申し出を断り、また、わざわざ海を越え日本からピンタード漁を取材にきた者を、日本語が通じない振りをして追い返す。そんな、他人との関わりを避け、良い誘いも悪い誘いも断り続けるマリオの姿は、無法者ぞろいの周りとは違い、一本筋が通っているようにも見える。

 しかし、やけになって無法に走る者も、かたくなに「筋を通す」マリオも、この風土の中では紙一重の違いに見える。どちらも投げやりで、潔い。

 日本からブラジルへの本格的な移民は1908年に始まり、現在日系人は140万人にのぼるそうだ。農業をはじめ政治や経済界などでの成功者も少なくないという。第二次大戦やその後の移民社会の動揺も大過なく切り抜けたという松井氏も、そんな成功者の一人だと思われる。しかし松井氏が描くのは、その陰で消えていった人々の姿だ。

 かつては日本語による文芸も盛んだったようだが、世代が進み今では日本語を読めない日系人も多いそうだ。そんな中、日本語で書き継がれてきた松井氏の作品が日本で刊行され、私たちはそれを翻訳ではなく原文のまま楽しむことができる。これってとても幸せなことじゃないだろうか。

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