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『技術と時間3——映画の時間と難—存在の問い』(未邦訳)ベルナール・スティグレール<br><font size="2">Bernard Stiegler, 2001, <I>La technique et le temps 3. Le temps du cinema—et la question du mal-être</I>, Galilée</font>

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「可能性の世界における「新しい批判」」

 スティグレールによれば映画というメディアは、『技術と時間』シリーズの第二巻、『方向喪失』において分析された二つの要素から成り立っている。一つは正定立、すなわちある対象そのものへと到達しているという信憑をもたらすような記録様態である。この概念をスティグレールロラン・バルトの写真の現象学から取り出した。もう一つは時間的対象、すなわちそれ自体が時間的な移行によって成り立っているような対象である。こちらはメロディーを聴くという意識の経験を分析するフッサールの時間意識論の検討を通して焦点を当てられた。

 さらにテレビというメディアはそれらの要素に、同時的に起こりつつある出来事を中継するという直接性と、またその同じ映像を大量の人間が同時に見るという共時性を付け加える、とスティグレールは述べる。

 アナログ技術に依拠する映画やテレビというメディアが人間の個人的、集団的な記憶のあり方、さらには個人と社会の個体化のプロセスに及ぼす甚大な影響に注目しながら、しかしスティグレールはすぐに、映画やテレビといった時間的対象がそもそもいかにしてかくも強力な影響力を有することができるのか、という問いへと遡っていく。

 そして「そもそも」を問うこの問いは、「そもそも意識とは何か」というきわめて哲学的な問いへと接続されていく。そこで検討されるのが、人間の経験の先験的な条件を探っていったカントの『純粋理性批判』における議論であり、その検討を通してスティグレールは、カントにおける先験的なものの地位を根本から転倒させていく。

 そのカント読解においてスティグレールが焦点を当てるのは、1781年の『純粋理性批判』の第一版における「純粋悟性概念の演繹」(1787年の版では置き換えられている箇所)で展開されている「把捉Apprehension」、「再生Reproduktion」、「再認Rekognition」の三つの総合に関する分析である。そこでスティグレールは、カントによって取り出された意識の構造を一種の映画として捉えかえす。

第三の総合は、はじめの二つの総合(それらは一種のラッシュと挿入画面である)をある唯一かつ同一の時間的流れの中で配置しモンタージュするものである。そしてこれらのすべてが一種の意識の映画——それは投影し、自身の来たるべき将来へと張り渡されている——を形づくっている。(p.79)

 『純粋理性批判』第一版において「再認」は、意識の統一性を担保する統覚を生み出す総合として捉えられている。映画をモデルしながらスティグレールは、この「再認」をそれぞれのショットをモンタージュすることで結合しそれをスクリーンに投影して一つの作品へと組み立てていく作業として捉えていく。

 そこにはおおまかにいって二つのポイントがある。一つは意識の映画は自身の統一性を所与として前提としてはおらず、投影の作業を通して生み出されていくということ。ここにおいて意識は,自らの統一性を来たるべきものとして絶えず志向しつづけていく一つの運動体として捉えられることになる。もう一つは意識の映画が成立するためにはそれが映し出されるためのスクリーンが必要であるということ。ここでスクリーンと呼ばれているのはスティグレールが繰り返し三次的把持という名において指し示してきたものである。このことによって、意識は技術的対象という「外」を迂回することによってしか成立しえないという事態がスクリーンの不可欠性として示される。

 ここでのスティグレールの主張は端的にいって、意識には技術的対象という「統覚の杖béquille de l’aperception」が必要であるというものである。「統覚」という意識の権利上の統一性を構成する力能を、技術的対象という事実的な「外」へと迂回させること、ここにスティグレールが遂行する転倒作業の核心がある。

 この転倒に伴って、カントにおいては純粋に心的なものであるとされていた図式化の能力(すなわち想像力の働き)は、書き込みあるいは操作(manipulation)といった手の次元への迂回を通して構成されるものとされ、さらにはカテゴリーもまたそれらの書き込み能力あるいは操作能力とともに歴史的に構成されるものとして捉え直される。そして想像力がそのように技術的次元において構成されているということは、それが産業によって組織されることが可能であるということをも意味する。スティグレールはこのようにして、アドルノとホルクハイマーによる文化産業批判を引き継いでいく。

 一種の映画であるとされた意識は、それが投影される三次的把持というスクリーンにおいて自らの統一性を生み出すとされるのだが、そのスクリーンという場は、同時に意識の記憶というものを構成する場でもある。ただし意識はたった一人で自己の記憶を構成するわけではない。三次的把持とはつねにすでに何らかの記憶が書き込まれている場であり、スティグレールによればそこには意識によるある過去の「取り込みadoption」という問題が生じる。「取り込み」とは意識が自分の生きたことのない過去を自分のものとしていくプロセスであるが、むろん、それが可能となるのはその過去へのアクセスを可能とする技術的配置によってである。

この取り込みのプロセスの条件は、後成系統発生によって、すなわち技術的記憶によって開かれた可能性のうちにある。そこにおいて、ある決して生きられたことのない過去、その当人によっても、またその生物学的な祖先によっても生きられたことのない過去へと到達することが可能となるのである。(p.142)

 だとすれば技術的諸条件の変容にともない、当然のごとくそこでの記憶へのアクセスの様態も姿を変える。そして『映画の時間』という書名が示しているようにこの巻においてスティグレールが焦点を当てるのは、映画というメディア技術がもたらした社会的な記憶の構成の地平の性格である。 

 スティグレールは、映画というメディアを通して国民の記憶を構成してきたというアメリカを例に挙げながら、その記憶構成の地平の性格について論じていく。その分析を通して見えてくるのは、個人個人の「我」が自己の統一性を生み出すその場が、同時に集団的な「我々」が構成される場でもあるということである。スティグレールによれば個々の「我」は映画を通して虚構的かつ理念的な「我々」を志向し、そのプロセスのなかで「我」と「我々」が差異をはらみながらともに個体化していく。映画は「我」と「我々」との「同期化synchronisation」と「非同期化diachronisation」とを編制する独自のエコノミーをもたらすのだ。

 ただし忘れてはならないことは、ベンヤミンがすでに述べていたように映画というメディアはつねに産業との本質的な結びつきのうちにある、という事実である。アドルノとホルクハイマーによって見出された文化産業の問題とは、産業的なエコノミーが「我」と「我々」のエコノミーを根本から巻き込み、さらにはそれを積極的に利用しもする、という点にある。

 そこに生じる「危機」の指標としてスティグレールによって捉えられているのが「教育enseignement」の問題である。ここで教育ということで言われているのは学校で行われるものにとどまらず、家庭や地域の共同体で行われるそれをも同時に考慮されている。そこで問題となっていることを一言で言えば、広義の教育のプログラムがプログラム産業によって用意されるプログラムに置き換えられつつある、という事態である。個々人を共同体へと参入させると同時に独自の時間のリズムを生み出す教育のプログラムが、映画やテレビのプログラムに置き換えられ、それぞれのプログラム表(番組表)のリズムの中で、経済的な利潤追求のプロセスの中に組み入れられていく。

 スティグレールが「新しい批判」の必要性を主張するのは、このような危機についての認識に基づいてである。

 『純粋理性批判』において認識に向けられたカントの批判は、アプリオリな認識の基準というものを前提とすることによって成立していた。しかし技術の根源性を掘り起こしていくスティグレールの議論は、そのようなカントの前提を根底から突き崩していった。たとえば認識を可能とするカテゴリー自体が技術への書き込みを通して構成されるものであるということが論証されたのだった。

 ただしここにおいて動揺するのはたんにカントにおけるアプリオリなものの地位だけではない。理論と実践、『純粋理性批判』と『実践理性批判』とを截然とわけていた境界そのものもまた、重大な疑義にさらされることになる。スティグレールの議論においては、技術という実践の領域に属するはずのものが認識の可能性の条件を構成するとされていたのだ。

 スティグレールはここでの掛け金をアリストテレスの『ニコマコス倫理学』における基本的な区別の正当性にまで遡らせる。アリストテレスはそこで、知(エピステーメ)の対象である「他のようではありえないもの」と、実践知(フロネーシス)と技術知(テクネー)の対象となる「他のようでもありうるもの」との区別を打ち立てると同時に、前者の後者への優越というヒエラルキーを設定している。しかしスティグレールが述べるように技術そのものが認識の可能性の条件を構成するのであれば、そのヒエラルキーが無効化されるのと同時に、「他のようではありえないもの」の領域は消失し、すべてが「他のようでもありうるもの」の領域に書き込まれることになる。

 このような問いの構制の変化は、産業革命以降の近代科学技術の性格が要求するものである。認識することと制作することが結びついた近代科学技術においては、もはや「純粋な事実確認という理念」は無化され、「科学はそれ自体が行為遂行性になる」とスティグレールは述べる(p.299)。

 このとき、知はもはや不変の現実を参照することはできず、可能性の海の中で自ら基準を創出していかなければならない。換言すればそこで問題となる問いというのは、基準を事実として確認するものではなく、自らが基準そのものを発明していく遂行的な問いなのであり、このような問いにスティグレールによって与えられた名が「新しい批判」である。

 そこでの公準は「差異を作ること」、より正確に言えば事実と権利との差異を作ることである。権利とは事物のように存在するものではなく、事実の次元との差異において、権利上の次元としてのみしか存在しない。「新しい批判」はその権利の次元を発明し創出していくことを自らの使命とするとされる。むろんそこでは認識と実践が不可分に絡まりあっている、ということも忘れられてはならない。「発明」という実践には、それを可能とする根本的な諸条件に関する洞察がともなう必要がある。ここにおいて技術の問いは、認識と実践との循環運動として定式化されるのだ。

(谷島貫太)

・関連文献

Adorno, Theodor W., Horkheimer, Max. Dialektikder Aufklärung. Philosophische Fragmente,, Querido Verlag,1947.(『啓蒙の弁証法――哲学的断想――』,徳永恂訳,岩波書店,1990年)

Aristoteles,『ニコマコス倫理学』上・下,高田三郎訳,岩波文庫,1971年

Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft, 1787.(『純粋理性批判』,篠田英雄訳,岩波文庫,1961年)

・目次

はしがき

イントロダクション

第一章 映画の時間

第二章 意識の映画

第三章 「我と我々」――取り込みのアメリカ的政治

第四章 我々の教育施設の居心地の悪さ

第五章 差異を作る

第六章 テクノサイエンスと再生産=複製

・関連書評

『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール

『技術と時間2——方向喪失』(未邦訳)ベルナール・スティグレール


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