『知のデジタル・シフト―誰が知を支配するのか?』石田英敬編(弘文堂)
デジタル化という問題について考えるとき、オプティミスティックな技術決定論に対する批判的な態度は、もはや一応の定見であるかのようにみえる。それらはむろんITアレルギーのような単純なものではなく、起きていることがら、起きつつあることがらを相対化して解釈しようとする積極的な態度には違いない。しかしいっぽうでそうした立場には、展開する事象の強烈なスピードに比べて、はるかに心もとなさを感じるということも認めなければならないだろう。
その心もとなさとは、あまりのめまぐるしさゆえに、自分自身立ち止まって考える猶予を与えられない焦燥であると同時に、このテクノロジーが、人間の経験してきた統制的な枠組みを超える次元で展開されることへの焦燥であり、また現実の日常的環境としてそこに依存せざるをえなくなっているという、矛盾を孕んだ不安でもある。そこで今起きているのは、われわれの身体的な経験のなかでどのように配置され、理解されうることなのか?たしかに感じているに違いない不安、ゆらぎは一体何のゆらぎであるのか?
本書第一部の第一論文、「〈人間の知〉と〈情報の知〉―人間の学としての情報学を求めて」で編者自身が試みようとするのは、そうした問題系の理論的俯瞰である。
まず基本的なフレームとして、〈記号〉〈技術〉〈社会〉という三つの次元が相互に連関して形成するボロメオの輪が示される。このうち〈記号〉〈技術〉は、アンドレ・ルロワ=グーランが示唆するとおり、人類が直立歩行に伴って解放された、脳と手から各々同時発生的に導き出されるものであり、このふたつが反復・連鎖することで立ち上がる、社会の記憶によって文明は成立する。ここで重要なのは、ベルナール・スティグレールが明らかにしたように〈技術〉は生得的なものではないという点、また〈記号〉も他者を介して開花するという点であり、いずれも集団的記憶としての社会と不可分である。
このボロメオの輪において、文字は脳と手、つまり記号と技術の領域をクロスさせるテクノロジーとして位置づけられる。すなわち、記憶するメタ・ツールとして発生した文字が、独立した技術(文字テクノロジー)として言語を記憶するようになることで、脳と手、記号と技術の領域が分節化され、記憶が外在的な「知」となるのである。さらにグーテンベルグの発明した活版印刷は、文字から身体的な記憶を喪失させる。このようにして完全に外在化し、観念化した「知」の空間は編者によって「万有アーカイヴ」と名づけられる。この万有アーカイヴを生きる者がすなわち活字人間なのであり、フーコーが問題化した言説の秩序とは、万有アーカイヴにおける知の編成を示す、という見取り図が成立する。
編者の問題意識は、このように人間の記憶から編成された、万有アーカイヴの秩序であるところの人文知のゆらぎにある。デジタルなコミュニケーションテクノロジーが人間の記憶とは無関係に供するのは、アドホックな「情報」とその集積であって、そこでは記憶は事後的にいかようにも再構成されてしまう。万有アーカイヴの秩序崩壊である。従って、今ゆらいでいる人文知に求められているのは、このアドホックな無限大の情報をどのように編みなおし、万有アーカイヴに変わる新たな知のシステムを組み立ててゆくかという戦略―知のデジタル・シフト―であると編者は論じる。
では、これを担ってゆくのは「誰」なのか。
以下の本論では、さまざまな場面で進行しつつある知のデジタルシフトに関連する知見と、進行中のプロジェクトが研究者・開発者によって報告される。しかしながら、デジタル・システムの主要な問題点である、アーキテクチャと主体との位置関係は、そもそもそこにおいて「主体」とは何を指すのかを含めて、すべての論者が明示しているわけではない。その中で、第二部の水島論文「インターフェイスとしてのGoogle、ブログ―『ユーザー』という概念を巡って」は、これらWeb.2.0の開発者たちと従来的なシステム開発との溝に着目し、そこで用いられている「ユーザー」という概念の相違を論じている。水島は、Googleやブログの開発者たちには、一様に「ユーザー」の自主性を信じて疑わないような楽観性がみられると述べた上で、彼らの考える「ユーザー」が、社会システムに対する「個人」ではなく当初から集合名詞であることを指摘する。そこには常に開発者である自分たちが含まれており、Web.2.0とは人間がシステムに内在して共に拡張する再帰的ダイナミズムとして把握される。
そのような魅力的かつ危いダイナミズムを持ちうるデジタル・テクノロジーの環境にあって、本書で紹介されるいくつかのプロジェクトが、人間の知をどのように担保しようとするのか、そこにおいて制御と再帰的な自己増殖はどう布置されるのか。社会学の普遍的論点である社会と個人の布置をそのまま反映したこの問題は、われわれが常に注意深くそれを意識化してゆくことでしか、おそらく解決することはできないだろう。そのとき、冒頭編者によって、壮大なスケールのなかで論じられるボロメオの輪の「シフト」という明解なコンテクスト―それ自体が「知の秩序」そのものであるが―は人間の知が生んだ理論的な支柱として、きわめて重要になるのである。
・関連文献
ミシェル・フーコー『知の考古学』中村雄二郎訳、河出書房新社,2006
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』森常治訳、みすず書房、1986
アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』荒木亨訳、新潮社、1973(絶版)
ボルヘス「バベルの図書館」『伝奇集』鼓直訳、岩波文庫、1993
Bernard Stiegler,La technique et le temps 1. La faute d’Épiméthée Galiée,1994
・目次
I 知のデジタル・シフトとは何か?
1.〈人間の知〉と〈情報の知〉――人間の学としての情報学を求めて(石田英敬)
2.新百学連環―エンサイクロペディアの思想と知のデジタル・シフト(吉見俊哉)
3.情報機器が生み出す「融合」環境と「広告」の位相(水島久光)
4.科学技術と社会(境真理子)
II 「知」のデジタル・テクノロジー――開発の現状
1.技術と人間のインタラクションをめぐって1 メディアアート(阿部卓也)
2.技術と人間のインタラクションをめぐって2 ナレッジインタラクションデザイン(阿部卓也)
3.検索技術の現在――MIMAサーチ(髙畑一路)
4.映像インデキシング技術と映像アーカイヴ技術(中路武士)
5.記憶技術の現在(西 兼志)
6.ユビキタスと知(髙畑一路)
7.インターフェイスとしてのGoogle、ブログ――「ユーザー」という概念を巡って(水島久光)
III デジタル・シフトと知の変容
1.イメージとテクノロジー(中路武士)
2.融合の微分学―端末市民論再考(水島久光)
IV 知のコンシェルジェ――百科知識によるコンテンツ探索(三分一信之・藤井泰文)
・関連書評
『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
『偶然からの哲学』(未邦訳・未英訳)ベルナール・スティグレール