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『言語表現法講義』加藤典洋(岩波書店)

言語表現法講義

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「うざったさの批評」

 批評の方法に関心があるという学生さんがやってきたら、筆者がまず推薦するのはこの本である。

 「表現法」の講義というのだから、表向きは文章を書くための教科書である。もちろん「スキマを生かせ」とか「ヨソから来るものを大事にせよ」といった、まごう方なき「コツ」も並んでいる。しかし、コツだけを求めて読んでいくと、たぶん、途中でへばってしまうだろう。著者がかなり本気なのだ。決して難しいことは言わないし、予備知識もゼロでいい。でも、こちらが腰をいれていないと、それこそ、押し返されそうだ。

 腰を入れる、とはどういうことか。たとえば冒頭、何かを教えようとか、大学らしい学問をしようという気持ちは捨てた、と著者は言う。そもそもみんな、文章を書くことがあまりに楽しくない、そこが問題だという。

 皆さんは、なぜ文章を書くのが楽しくないのだと思いますか。僕はある時、その理由を発見しました。

 人に文章を書かせなくする確実な方法というのは、死ぬ思いで、頑張ってあることについて書け、と言っておいて、書いたらそれを見ている前で燃やすのです。それを一〇回くらい続けたら、まずほとんどの人が書くのをやめるでしょう。でも、大学でなされているのは、それと似ているのです。

文章を書くための本のはずなのに、こういう風にはじめられると、こちらは虚を突かれてぐらつく。柔道で言えば、体勢をくずされるような小技。まさかそう来るとは思っていないから、ちょっとした接触なのに、あっ、と思う。差し込みが実にうまい。

 文章の一生というものがある。それは、文章を書く。そして、それを相手に出す。そこで終わるのではありません。それは、相手に読まれ、時に相手を失望させ、時に相手を感激させ、時に相手に愛想を尽かされる。その相手から「生きた反応」が示される。そこまでいって、人に一度書かれた文章というのは一つのサイクルを終えるのです。鮭で言ったら、これが海に行って川に帰って、産卵して死ぬ、までの行路です。

たいへんやさしい言葉で書いているのだが、これ、相手に頷かせるためだけの言葉でないというところに注意しなくてはならない。からんでいる、のである。その相手はまずは講義参加者が提出してきたレポートであり、また本書に散りばめられたさまざまな文章の抜粋である。それらをつっつく。しかし、それだけではない。「みなさん」と呼ばれる教室にいる生身の学生や、若者一般や、文学をやる人や、そして誰より、著者自身も対象なのだ。

 からむ、とは別のいい方でいうと、言い終わらない、ということである。言葉を出したりひっこめたりする。様子をうかがう。でも、自信がないというのとも違う。是非そうだ、というような強さを持っている。やっつけてやろうとさえ思っているらしい。それでいて妙にやさしいというか、人懐っこい。控えめでもある。

 著者はこの「からみ」によって、問題の所在そのものをさぐっているのである。問題と正面からぶつかって悩んだり、解決したり、あるいは主張したり、論じたりするより、何でもいいから手をつっこんで、内容をぐちゃぐちゃとほぐしていく。聞き手との関係性もまだ決まっていない、組み手が定まっていないから、お互い警戒しながら立ち位置を変える。そういう過程で、何かを話題にするということ自体が話題になる。やり取りが生ずるのである。「何を話そうか」「ほら、見て。これは何?」というような、ほぐすような手招きを感じさせる。それで思わず反応し、思わず、自分のこととして考えてしまうのである。だからそういう用意がないと、つまり、腰をすえて向こうの「ほぐし」を受け止める準備ができていないと、こちらはただ体勢を崩されて終わる。

 別の例を引こう。

 先に僕たちは、「自分」を押さえ、それを「他人」にどうわかりやすく書くか、というように考えたのですが、自分で実際に書こうとして、わかることがある。白紙の前に立つと、自分って何も考えていない、頼りにならない、ということにはじめて、気づくんです。ああ、なんて自分って空っぽなんだろう、そう思いませんか?僕はよくそう思う。それが書く場合の最初の感慨です。

うわっ、といいたくなるくらい侵入的な語りである。誰もが、あまり口にしたくなくて黙っていることをたやすく言う。あまり偉そうにではなく、軽々と、でも深々と言う。そこには「ねえねえ、」とまとわりつくような、しつこさがある。「うざったさ」がある。

ここで皆さんに言いたいことは一つ、書こうとするときにその邪魔、障害として現れてくるものを回避したら、絶対にいいものは書けません。書かれる文章に力を与えるのは、その障害、抵抗なんです。僕などは、だいたい準備した後、どこからが自分の書けないところかを見極めると、そこに自分をパラシュートで投下させますね。書けないところから書く。まあ、これは極端で命を縮めますからすすめませんが、少なくとも、書けない、これはチャンスだということです。

この「パラシュートで投下」という比喩、たぶんこの本のMVPである。言葉としてぜんぜん美しくないところがまた、加藤典洋らしい。淡泊で、殺伐としてさえいる。太っていない。

 これこそ、批評だよな、と筆者は思う。

 批評家は喧嘩稼業だということがよく言われる。切った張ったでナンボの世界だという。勝負の世界なのである。より殺傷力のある言葉を語る者が勝つ。だから、しばしば批評家は分厚い鎧で身を包む。いつ弾が飛んでこないとも限らないから。

 加藤典洋だって、たとえば文芸誌や新聞に書くときにはそれなりの装備に身を包んでいる。でも、批評家が真価を発揮するのは、薄着になったときではなかろうか。難しい言葉で戦闘ごっこをしてみせるのはあんがい簡単なのである。武具を脱いでみると、「な~んだ、その程度のことを言うために、そんな装備をつけていたの?」と言いたくなる。

 この本は逆である。限りなくハードルを低くして、文学になんか露ほどの関心もなく、「加藤典洋」というブランドネームにも反応しないであろうふつうの大学生にどうやってからむか、そこで勝負している。鎧など着ていたら、みな、立ち止まってくれさえしない。

 本書は初版が1996年。すでに十以上の版を重ねている。最近、こういう「うざったさ」を発揮する批評家がどれだけいるだろうか。言わないでおきたいことに手を突っ込んでくる嫌な奴。もともと数が少ないのかもしれない。威張りん坊じゃ、だめなのだ。本書にも引用されているが、『文学がこんなにわかっていいかしら』の高橋源一郎なんか、かなりうざかったなあ、とあらためて思う。

 からみで勝負する批評家は、こちらにも反論する余地を残してくれる。実は本書には一カ所、そこは言わなくてもいいのになあ、と思うところがあった。わかったことよりも、わからないことを書くのだ、という一節である。

僕は批評を書きますから、これは調べものをするわけです。それで、いろんなことがわかる。ふつう学者の論文というのは、その調べ上げたものを、書くのです。これがプロの学者というものなのでしょう。でも、僕はプロはプロでも物書きの方のプロです。で、物書きとしてのプロは、ここで、どうするかというと、調べたものをすべていったん捨てるのです。調べてわかったことは、その上にいくための階段にしかならない。つまり、わかったことが大事なんじゃなくて、わからないことが、大事なのです。何が自分にわからないことなのか、それを求めてこれでもない、これでもない、と調べていく。そして、最後に、これが正真正銘、自分にわからないことなんだ、というそのわからなさのエキスを摑み出す。

まったくその通りだと思うし、本文を読んでくると自然な流れでもあるのだが、ここだけは堂々と言っちゃいけないのじゃないかという気もする。わからないことは大事だし、そこに文章の肝があるというのも納得するのだが、やはりわからないことは恥ずかしいことなのじゃないか。恥ずかしいことであり、うまく言えないことであり、だから純粋でもある。この体験を指さし、「ここです」と言ってしまって、もちろん加藤典洋のような人が「んぐ」とばかりに受けてとめるなら何の問題もないのだが、たとえば「そうか、わからないことが大事なのですね♪」という具合にすかっとさわやかに受け入れられたら、果たしていいことがあるのかなあ、という疑問が立つ。下手をすると、かつての日本的批評の、口ごもりがちで勿体ぶった、妙に神秘主義的で格好ばかりのいい、悪い意味での「うざったさ」につながるようにも思うのである。

 どうでしょうね。


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