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『徒然王子』島田雅彦(朝日新聞出版社)

徒然王子

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「ファラオのギャグ」

 新刊の手に入りにくいところにいるのだが、縁あって「朝日新聞」連載中の『徒然王子』の第一部を入手した。太宰の次が島田雅彦というのは、別に深い意味はない。

 たいへん男っぽい文章である。隙間はあるが、柱は太い。日本の小説界の主流は、ちょっと男性的にどもってみせるにせよ、女性的に浮気っぽくさまようにせよ、最後までがっちり言い終えるのを避けることで成り立ってきたところがある。どこかで、ひねったり、にじんだり。自然主義と言われるような作品でも、印象派的な霞がかった感じがつきまとってきた。

 島田は、わりと平気で断定する。すっぱり言い切る。冒頭近く、主人公のテツヒトの住む「王の森」を描写する箇所にはそれなりの叙情性がこめられるのだが、ここでもにじむような「詩っぽさ」に訴えることはない。

 音はいつも遠くから曖昧に聞こえてくる。車や風の音、鳥の鳴き声や人の話し声は渾然となり、パイプオルガンの不協和音にも似た音に変わる。噂話や笑い声や嗚咽のような生々しい音は一切聞こえない。森が音を検閲し、有害な音を遮断しているのだ。

 だが、この森は安眠を約束してくれない。長くこの森に暮らしてきた父も母も睡眠障害に苦しんできた。息子のテツヒトもまた不眠の血筋を引いてしまったようだ。今夜で連続六夜、眠れない。日付変更線を超えたわけでもないのに、時差ボケと同じ症状が出ている。夜眠れない分、昼間に不意に睡魔が襲ってくる。

正しい書き順で書かれた楷書体のような骨格がある。どもることで誰かに救われようとするような「少年語り」とも違うし、気まぐれで、くせのある「悪女の語り」とも違う。むしろ「父の語り」とでも言うべきか。

 「やんごとなき方」を主人公にすえ、「王子の遁走」という古来、繰り返し語りつがれてきたテーマを扱うこの作品、帯にもあるようにたしかに「冒険ファンタジー」には違いないのだが、ほんとうに効いているのは、このしっかりした土台ではないかと思う。

 島田の売りは何と言ってもギャグである。「王子の遁走」の家来となるのが、宮廷のお雇い道化をしているお笑い芸人のコレミツだというのはそれ自体ふざけているし、最初の家出先が「ドーゲン坂下」というのもいい。そのドーゲン坂の、ふたりが辿りついた酒場ではこんな会話がかわされる。

 コレミツはカウンターの端に陣取り、ウイスキーのダブルを二つ注文すると、「最近、どう? 客層は相変わらずかい?」と緩い世間話から始めた。

― ここ一年でお客の顔ぶれもずいぶん変わったわ。

― この国はあかん、もう仕舞いや、というのが口癖の歯槽膿漏のおっさんがいたね。

― ああ、弁護士のヌマさん。あの人は去年、亡くなったわよ。

― この国より先に自分がくたばったか。いじる相手がいなくなると、寂しいね。そう、誰でもいいから、金持ちと結婚したがっていたアニメ声の貧乳モデルがいたよね。

― ニコルちゃん。彼女は実業家とゴールインしたけれど、夫が粉飾決算で逮捕されて、豪邸暮らしも一年しか続かなかった。今はアラカワ区の2DKに暮らしてる。

― 怪しい詩人もいたね。ホテルでがめたバスローブをコート代わりに着ていた人。

― ガニ股平次さん。もう女の子が相手をしてくれないからといって、山に登ってる。

何なんだ、このふつうさは!?と思う。島田のギャグというのは、ちらっと仄めかす類のものではなく、有無を言わせぬ口調である。そこには揺るがしがたい日常感覚というのか、もっと言うと、作者の諦念のようなものさえが露出している。世界って、こんなものでしょう?とでもいうような。

 こうなると、小説的世界をはばたかせるのはひと苦労である。がっちりした土台に腰をすえて、疑り深い目で世界を見ている語り手がいるわけだから、どうしたって、プロットだのサスペンスだのが弱々しく見えてくる。そういう中で、「王子の遁走」や桃太郎的「従者のリクルート」や「あの世への踏みこみ」といった、紋切りとさえ言っていいような神話の「型」こそが、土台と釣り合うだけの、屈強な物語を呼びこむ。

 筋書きは実に明快である。主人公のテツヒトが体験するのは、いわば「地獄めぐり」。王の森からさ迷い出るとは、内と外との境目を踏み越えることを意味する。しかし、テツヒトの一行が辿りつくのは、もっと怪しい地帯であった。

昔の人は内と外とを隔てる結界を常に意識していました。でも、今は都市の外側には境目なしに郊外が広がり、町が途切れることがありません。自然の結界である海や山は、埋め立てられたり、削られて住宅地に変わってしまいました。今はどこに聖域があり、どこに結界があるのか、目に見えにくくなって、そうとは知らぬまま結界を踏み越え、危険な領域に入り込んでしまうことが多くなりました。

 ギャグどころか、こうした箇所、やけに「まじめ」である。しかし、語り手が(そして著者も?)こういうストーリーを本気で信じているのかも、と思わせるところがこの小説にはある。そこに、不覚にも、つり込まれる。もっと微妙な例をあげると、出奔直前にはこんな会話が王と交わされる。

 父上が差し出すグラスを受け取ると、テツヒトは開口一番こう切り出した。

― 耐えがたいのです。ここを出て行くことをお許し下さい。

 父上の目は泳いでいた。あきらかに戸惑っていた。だが、父上は戸惑うことが仕事であるかのように振る舞ってきた。戸惑いながらも、いつも冷静に事態を把握していた。

― どうしたいのだ? 行くアテはあるのか?

― ありません。ただ、行きたいところに行く自由を行使してみたいのです。誰もが自明の権利として持っている自由を、私も使いこなしてみたいのです。

「戸惑うことが仕事」は笑うところ。しかし、こういうギャグもしっかりと神話につながっていく。母親に別れを告げに行ったテツヒトが、「あなたがなすべきことは第一に生まれてくること、第二に人を愛することです」と言われ、それに応えて「そして死ぬこと。死ぬ前に子孫を残さなければ。ここにとどまる限り、私は女性と出会う機会もない。妃になってくれる人を探すためにも旅にでなければならないのです」というあたりになると、もう語りのペースに乗せられている。

 島田は、語りの声がたいへん強い。それは独り言や雑談にはなりにくいタイプの声で、言ったが最後、てこでも動かない。刻み込まれるような声である。もちろんファラオじゃあるまいし、「父の語り」などには作家本人も興味はないだろう。「父」から、せめて「叔父さん」くらいに語り手の声を解放するためには、ギャグが役立つ。

 しかしやっぱり神話を語りたいのである。その語りたい、という点においてこそ、『徒然王子』は一種の私小説のように読める。作家の分身テツヒトは、シニシズムの呪縛から逃れるかのように結界を越え、「あの世」にまで踏みこんで行く。そしてその途中、さまざまな物語と出遭う。一度だけアフリカ系の男性とセックスしてしまったがために、妊娠しなかったにもかかわらず相手のDNAを身体にとりこんで、何となくアフリカ系っぽい子供を生んでしまったというサトミ、記憶の天才としてもてはやされながら、忘れる能力を欠いていたために、自分の記憶に邪魔されてまともな生活を営めなくなったアレイ君…。こうした出遭いを通して、テツヒトは語り部と化す。

 自分のことではなく、遭遇した人々の物語を語るという私小説。他者が描けてる云々と言うが、「遭遇」や「関心」がなければはじまらない。ましてやそれが憂愁の森から逃れ出た王子の話ともなれば、この作家にはぴったりかもしれない。


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