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『ボン書店の幻 モダニズム出版社の光と影』内堀弘(筑摩書房)

ボン書店の幻 モダニズム出版社の光と影

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「物語のおわり」

『ボン書店の幻』が文庫に! 早速、パソコンと本の山をむこうへ押しやり、ひといきに読み、呆然となる。白地社版を読んだときもおなじだった。二五〇頁ほどのボリュームの本を読んだという気がまったくしないのだ。著者に導かれ、レスプリ・ヌウボオの風に吹かれ、きらめくような書物たちのあいだをくぐり抜け、気がつけば「彼」は消えてしまっていた。まるで一瞬のできごとのようなこの読後感が、「彼」――ボン書店・鳥羽茂の印象とかさなる。

 一九三〇年代はじめ、「モダニズムの時代」も後半にさしかかった頃にあらわれた出版社・ボン書店は新しい詩への夢とすぐれた造本感覚でもって、当時の若きモダニズム詩人たちの詩集やシュルレアリスム文献を世に送りだした。

 そのはじめての出版は昭和七年の夏、竹中郁『一匙の雲』と北園克衛『若いコロニイ』である。「生キタ詩人叢書」というシリーズとしてだされたこの二冊(同年、春山行夫『シルク&ミルク』、近藤東『抒情詩娘』の計四冊が同叢書として刊行)は、九・五センチ×十二センチ、二十頁あまりの、手のひらにおさまるような小さな詩集だった。装幀は北園克衛、表紙にモホリ・ナギのモノクロ写真が使われ、左端のタイトル部分がそれぞれ色違いで刷られている「今手にしても『大胆尖端』な作り」。じつに、とびきりおしゃれでかっこいい。本書のカバー右側にならんだ四冊がそれである。

 本文中には、北園克衛『若いコロニイ』と、当時の代表的な詩書の出版社である第一書房堀口大学『月下の一群』がならべられた写真があるが、革装に金の箔押しという、重厚かつゴージャスな『月下の一群』にひきかえ、『若いコロニイ』のほうは「それこそ付録のような代物」。しかし、このシンプルで軽やかな詩集に、当時の若き無名詩人たちは新しい時代の匂いをかぎとった。「ボン書店は新しい詩や感性が分厚い美学書や哲学書の向こう側にはもう残ってないことを感覚で知っていた」のだ。

 ボン書店とはつまり、刊行人である鳥羽茂その人であった。ボン書店をはじめたとき、鳥羽は二十二歳。出版社は住まいもかねた小さな作業場で、紙の山にかこまれながら、鳥羽自らが活字を組み、印刷をするというプライベートプレスである。当時詩集はほとんどが自費出版であり、著者からの出費ももちろんあったらしいが、鳥羽は自分がこれぞと思う本は、私財をはたいて作り込んだ。どれも百部から二百部ほどの少部数、儲けなどあるはずもない。生活はいつも苦しく、くわえて病気がちであった鳥羽は、雑誌の編集や印刷屋の仕事をしながら、その儲けを本作りに投じていたらしい。そして、七年間の活動ののち、ボン書店も鳥羽茂もどこかに消え失せ、人々から忘れ去られてしまった。

 ボン書店の本を、著者がはじめて手にしたのは一九八〇年代のはじめ、古書店石神井書林」を開業したばかりの二十代の頃のこと。「モダニズムの時代」を生きた春山行夫・岩本修蔵・山中散生らによる、戦後になってからの述懐によって、ボン書店は「幻の出版社」として文学史の片隅にかすかにとどめられていただけにすぎなかった。かの時代から半世紀、その奥付に「刊行人・鳥羽茂」の名を見たときから、著者の鳥羽茂を追う旅ははじまった。

 「なぜ書物というものは著者だけの遺産としてしか残されないのだろう。幻の出版社といえば聞こえはいいが、実は本を作った人間のことなどこの国の「文学史」は端から覚えていないのではないか。とすれば、なんとも情けない話だ。ボン書店についてもその活動は何も記録されていないし、資料も残されていない。送り出された瀟洒な書物がポツンと残されているだけだ。」

 資料を蒐集し、人を訪ね歩き、ボン書店と鳥羽茂についてを調べつづけた著者。まったくの無名であったこの刊行人をめぐる「書物の舞台裏」の物語はこうして生まれた。それは、鳥羽茂の物語であると同時に、ボン書店の本とその刊行者に魅せられた著者の、追跡の足どりの物語でもある。

 一九九二年の単行本から十六年を経ての文庫版。その長めのあとがきには、その後の著者の、鳥羽茂をめぐり足どりが記されている。そこで著者は、単行本出版当時はまだ謎のままであった、鳥羽茂が消えてしまった場所にまでたどり着いてしまった。

 ボン書店との出会いから、この一冊を著すまでの著者の足どりは長いものだったろう。それなのに、鳥羽茂の生涯にも似た、ひとすじの光芒をみるかのようなこの読後感。だからこそ、鳥羽茂という人の像は、忘れられないものとして、しっかりと自分のうちに焼きつけられた。文庫版での「その後の物語」を読むと、その夢のような瞬間と彼の姿が、べつの重みを帯びて胸にせまる。おわりのない物語はないのだけれど……。

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