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『抒情するアメリカ ― モダニズム文学の明滅』舌津智之(研究社)

抒情するアメリカ ― モダニズム文学の明滅

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「敗北と文学」

 なぜ文学研究は、判で押したように「抑圧された欲望」とか「ジェンダーのゆらぎ」といったフレーズでオチをつけるんですか? 最初から結末が決まってるのでしょうか? なんていうことをいやらしく問うてくる学生がいたとする(実際に、いる)。もちろん、こちらも場当たり的とはいえ、何かしら答える方法がないわけではないのだが、いろいろ理屈をこねるよりは、まずはこの『抒情するアメリカ』を読め、というのが手っ取り早そうだ。

 文学の批評というのは実にマッチョなジャンルである。そのことを象徴するのはおそらく、「なのだ」という語尾だろう。新しい事実や意味を「自分だけが発見した!」と主張し、かつ、発見した自分を「どうだ、見ろ!」とばかりに堂々とひけらかしてみせる。そうしないと格好がつかないのだ。

 なぜそんなことになるのか。背景にあるのは、「文学作品というのは寡黙だ」という前提である。恥ずかしがり屋さんの作品テクストに替わって、批評家が声を大にして「なのだ!」と代弁してあげる、そうすることで守ってあげる、そんな設定が文学批評の黄金パタンとなってきた。ボケ(作品)と突っ込み(批評)の相補的な依存関係が、作品と批評との間にはあるのらしい。

 しかし、ほんとうにそれだけなら、複雑なことにはならない。批評家や文学研究者が青ざめて悩んだりする必要なんかない。とにかくぜんぶ説明し、やっつけてしまえばいいのだ。捕獲してしまえばいい。たいへんルールの明確なゲームだ。ところが、実際には多くの(まともな)批評家や文学研究者は青ざめて悩んでいる。おそらく舌津智之氏もそのひとりだ。

 というのも、「なのだ」を駆使して威張らざるを得ないにもかかわらず、(まともな)批評家や文学研究者というのは、作品テクストの方が、「なのだ」で語る批評よりもはるかに「上」だということを知っているからである。威張っているにもかかわらず、たえず語る対象に対する底知れぬ劣等感に駆られてもいる。

 こんな必敗関係に直面して、批評家はいったいどうしたらいいのか。『抒情するアメリカ』は、その対策をたいへん華麗な形で示してみせる。たとえば次の箇所を見てもらいたい。

なるほど、抒情とは一見、禁欲的なモダニズムより、開放的なロマンティシズムに親しむものだと感知されうるかもしれない。しかし、抑圧されて回帰する個人的情緒――禁欲的自己検閲のもとに発露する明滅的な感傷ないしはロマンティシズム――がアメリカ的な抒情のゆらめきであると見る本書の枠組みに照らすとき、(成就しないままに延命される)欲望の深みと強度において、抒情するモダニズムとは、ロマンティシズム以上にロマンティックであるという逆説を孕む。

「禁欲的自己検閲のもとに発露する明滅的な感傷ないしはロマンティシズム」って、いったい何?と思う人もいるかもしれないが、要するにむっつり構えて我慢していたおじさんが、つい、隠れて泣いちゃったり、妙な苦笑い顔になったりする、といった場面を想像してもらえばいい。

 しかし、舌津氏はそうは書かない。そうは書かないことが大事なのだ。「なるほど、抒情とは一見…」で始まる上の一節の、「なるほど」には明らかに勝ちにいく書き手(=舌津氏)のポーズが表れている。「なるほど」と言われたとたんに、我々読者は「ああ、もう相手の言うなりになるしかない」と無意識のうちに白旗を立てているはずである。同様に、「むっつりしていたおじさんが、つい、隠れて泣いちゃったり…」とは書かずに「禁欲的自己検閲のもとに発露する明滅的な感傷…」と書くのも、やはり勝ちにいくポーズである。我々は、ああ、こんな風に言われるなら文句を言うのはやめよう、素直に従おう、と思うはず。

 だが、舌津氏がこれほどのマッチョで、強面で、完膚無きまでにこちらを打ちのめさんとするポーズを取るのは、決して作品を組み伏せ、切り裂き、蹂躙するためではない。それどころか、まさに自らが対象として取り上げる作品に美しく敗れ去るためにこそ、著者はこうした語り口をとる。著者が語ろうとするのは、存在ではなく欠如なのである。完成や到達や「論理の完遂」ではなく、仮定や逸脱や「感傷の漏れ出し」を語る。ということは、著者がマッチョで強面になればなるほど、まさに語ろうとする対象からは逸れ、離れていくということなのである。

 ああ、また「逸脱」か、と飽き飽きした口調になる人もいるかもしれない。冒頭で触れた学生の「また、ジェンダーのゆらぎですかぁ?」という問いも聞こえてくる。しかし、そんなことは著者は重々承知なのである。もちろん、「ジェンダーのゆらぎ」をはじめとするフレーズは、共通の場を構築するための挨拶替わりという程度のものではない。著者は本気でジェンダーのことを語っている。そこは批評の怖いところで、本気でない言葉というのは、何となく、肌で感じ取られたり、白々しさが透けて見えたりするもの。しかし、「ジェンダーのゆらぎ」と口走ることで著者が満足しているなどとは、ゆめゆめ思ってはいけない。ジェンダー云々の格好いい決まり文句が、花と散るかのようにどうでもよくなる瞬間というのが、本書のあちこちには見られる。

 以下にあげるのはその例だ。ビーチボーイズを扱った最終章で著者は、このバンドの独特の暗さが「現実にはありえない何かを想定する創作モード」から来ているとし、さらに仮定法の重要さに注目する。このあたりは議論としてどちらかというと先の「勝ちにいくポーズ」を思わせるのだが、そうした批評的論理を構築する途上に、ビーチボーイズの歌詞をめぐる、次のような分析がある。

We could ride the surf together

While our love would grow

In my Woody I would take you everywhere I go

ここで、わずか三行のうちに六度繰り返されるの音(We, While, would, Woody, would, everywhere)は、唇を尖らせる動作によって発音されるものであり、同様に唇をすぼめるの二重母音の脚韻や、surfとloveとmyとeveryの四語に含まれる口唇音とも重なって、二つの唇が柔らかな接触を求めあうくちづけの官能性を自体愛的(オートエロティック)に模倣する。裏を返せば、それは、歌の中でしか実現しえない架空のくちづけである。

 さて、どうだろう。いくら勝ちにいく議論の果てに繰り出されるとはいえ、ここまで来ると、「ん?待てよ」という気にならないだろうか。もちろん、「ありえない~!」というほど珍妙な議論ではないし、むしろその指摘の思いがけなさ、鮮やかさには思わずうっとりする。だが、そうは言っても「ん?」の気持ちも消えない。

 判で押したような強面のフレーズの隙間から漏れ出るようにして、ほとんど自虐的なほどのいかがわしさで増殖しあふれ出す、限りなく嘘っぽいけど、やけに本当っぽくも聞こえる読み。これこそが舌津氏が『抒情するアメリカ』に仕掛けた「負け」の装置なのである。自らの強面の「勝ちの仮面」をあざ笑うかのように、自由に、いい加減に、好き勝手に、でも、そう簡単には気づかれないように、軽やかに駆けめぐる言葉。

 本書で舌津氏が立てたテーマは、アメリカ文学における抒情であり、感傷であり、涙である。これは実に手のこんだ設定だと言える。表向きのポーズとしては、こうだ。本来、ぐにゃぐにゃして「知」の言葉ではとらえきれないはずの「情」を、徹底的に散文的に、論理的に、文学史的に曝いてみせる、と。そもそも「情」について、情的な言葉でことさらうっとり「詩的」に語ろうとする批評の、その怠惰で自己耽溺的なうっとうしさには、舌津氏は長らくうんざりしてきたはずだ。だからこその、強面で理知的な仮面。しかし、その枠をきわめて精妙に構築する一方で(白眉はおそらく序と第五章。まずはここから読むのも手かもしれません)、さらにそれを上回るような抜け目のない俊敏さで、枠の硬度を出し抜いてみせるのである。何もそこまでやらなくても、と読者がとめに入りたくなるほどだ。しかし、その出し抜きの衝動の「どうしようもなさ」にこそ、おそらくは舌津批評の真実がある。

 抒情や詩について何か言いたい、というのは多くの批評家が抱く夢だ。文学の中でももっとも語りにくい、おそらく永遠に正面切っては語られ得ない何かがそこには隠されている。奥にある、芯にある、という気にさせる何かなのだ。だからこそ、あれこれ作戦を駆使して、語ったことにする。あるいは敗北してみせる。それでも十分「そこ」に足を踏み入れた心地を表現するのが、批評家の腕というものだろう。本書は、そのお手本を示してくれる本ではないだろうか。


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