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『アトラクションの日常 ― 踊る機械と身体』長谷川一(河出書房新社)

アトラクションの日常 ― 踊る機械と身体

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「どこにもたどりつきたくない本」

 目的地のない旅に憧れる人は多い。気ままで自由でこだわりのない、当て処のない彷徨に身を任せることができたらどんなに気持ちいいか。しかし、実践するのは意外と難しい。お金や時間の問題ではない。「目的地なし」を「目的」にすることにはじめから矛盾がある。意識的に無意識になる難しさと同じだろう。

 『アトラクションの日常』はあえてこの〝目的地なし〟に挑戦する本である。第一章のタイトルは「揺られる」。以降、「乗り込む」、「流される」、「ながめてまわる」、「買い物する」、「セルフサービスする」、「くりかえす」…と動詞形のテーマがつづく。なぜ、動詞形なのか。冒頭、「車窓」や「揺れ」を話題にした箇所でも説明されるように、近代の文化は〝モノ〟を作っただけではなく〝コト〟をも作った。できあがった〝モノ〟が、いかにして身体感覚を通した〝コト〟として体験されるかが意味を持つようになったのである。人が〝モノ〟をしかと見据えるような関係のなかでは、主体と客体とはきれいに分離される。だが、〝コト〟となるとちょっとちがう。

 〝コト〟においては主体が客体に巻き込まれている。著者は「車窓」や「揺れ」といった装置に注目しながら、人間の身体が〝コト〟を生きる微妙な感覚について丁寧に語ってみせる。〝コト〟においては、主体よりも行為に、主語よりも動詞に重点がおかれる。目的地にたどり着くことよりも、旅そのものが大事だというのとパラレルの思考である。正解を差し出すことよりも、あるいは議論を終わりまで導いて「こういうことなのだ!」と概念的に結論づけることよりも、たえず動いていたい。たえず考え、発見し、語りつづけていたい。簡単なようで、なかなか難しい。どうしても主体の〝我〟が邪魔をする。行為が行為として自立しそれ自体として賞味されるためには、むしろ主体性などないほうがいいのだ。だから主語などとってしまえばいい、動詞だけ立てればいい…とそんな思考が読める。

 私たちの日常のなかでも、主体が主体でなくなるような境地はあちこちで生じている。通例そうした主体性喪失は批判的にとらえられることが多いのだが、たとえば「流される」という感覚を扱った章でも見られるように、著者はむしろそういう状況の「気持ちよさ」に臆せず正面から向き合っている。

それは、どこにもひっかかりがなく、スムーズに物事が進行するただなかに身をおいたときにのみ感じられる種類の快感であり、まさにわたしたちが流れるプールでゆるゆると流されているときに感じられる解放感や癒しと同種の感覚である。そのとき、この「わたし」の身体は、環境のなかに解消されてしまっている。

 こんなふうにあくまで身体感覚を出発点にし、なるべく頭で決めた観念的な終着点にはたどりつくまいとするのが本書の方針である。もちろん、上手に遊ぶためには最低限のルールは必要。そこで著者が持ってくるのが、テーマパークの「アトラクション」という概念なのである。これは広い意味での「遊び」とも翻訳できるだろうし、そうしたらまた別の彷徨もできるかもしれないな、などと心の中でつぶやきながら筆者は読み進めた。

 こうして「アトラクション」という装置を参照しながら、日常の中に無数にある身体体験の形を掘り起こしていくというのが、この本の旅のいわば「目的」となる。テーマパーク研究ではない。「テーマパークとは何か?」とか「アトラクションとは何か?」といった求心的な問いはない。むしろ、「アトラクション」をダシにして、どんどんさ迷ってみましょう、というのだ。

 著者の長谷川一の前著は『出版と知のメディア論 ― エディターシップの歴史と再生』。こちらは「学術出版の行方」という硬質なテーマを扱った本格的なメディア論である。歴史的な検証作業と同時代的な問題意識とがからみあっていて、膨大な資料に基づいたしぶとい考察が展開されている。良書である。そして、重い。

 どうなのだろう。あのように本格的で重厚で目的意識のはっきりした良書を著した人というものは、できるだけ前著から遠くに離れたいと思うものなのか。凝りをほぐしたいと思うのか。肩が凝ったから、腰が張ったから、少しは身体を動かしたいと思うのか。だから「運動」なのか。

 楽しい彷徨に満ちた書物というのは読書人にとっても理想のひとつである。目的地など定めていないのになぜかちゃんと書けてしまったような本。目的地など示されていないのに読まされてしまうような本。そもそも他者によって書かれた本を手に取るという段階で、どこか行方の知れぬ〝彷徨〟への期待はあるのだ。

 本書の〝彷徨〟でもとりわけおもしろかったのは、わりに唐突にJR品川駅の使い勝手の悪さが話題になったあたり。しかもかなり細かく説明されている。なぜ、よりによって品川駅なのか、使い勝手の悪さでは吉祥寺駅だってかなりひどいのに…東京駅だって新装オープンしたところも使いにくいぞ…なんて思いつつも、図版として掲載されている品川駅コンコースの写真など見ていたら何となく説得されてしまった。そうかやっぱり品川だよな、と思った。

 この本の特長は、こうした唐突に局地的な視線である。おそらくこの唐突さのおかげで、ちりばめられた名前が主体化しすぎないのだ。名前はあくまで散発的な名前としてとどまる。品川はあくまで品川。名古屋は名古屋。ふんだんに盛り込まれた図版も効いている。DVDからの引用や資料写真もあるが、著者自身の手になる妙にローカルな写真がとくに楽しい。著者の生まれ故郷でもあるらしい名古屋のややうらぶれた公設市場の風景が、「アトラクション」をテーマとした本書の中でひときわ輝いていたのは印象に残った。許されるなら、続編を書いてみたいと思わせるような本である。

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