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『アメリカ文学史』平石貴樹(松柏社)

アメリカ文学史

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「半径2メートルで語る」

 文学史とは、言ってみれば結婚式のスピーチのようなものである。「新郎新婦、どうぞご着席を」にはじまって、「こんなに笑顔のかわいらしい花子さんをもらって幸せな山田君よ」とか「辛いときこそ力を合わせてウンヌンカンヌン」などと、あれこれ言わなければならないことが決まっている。

 何よりそれは〝演説〟なのである。「アメリカ文学」という、実はあるんだかないんだかよくわからないものを、まるでそこにあるかのように指差し、ひっくり返したり持ち上げたりしながら、呼びかけ、連呼し、賞賛する。つまり、〝自分の声〟で語る余地は非常に少なくて、お約束のことをよそ行きの強張った声で、しかも延々と数百頁にわたって語り続けなければならないのである。何と因果な商売だろう! 読む方だってたまったものではない!

 

 というわけで文学史というのは通読するものではないと筆者は思ってきた。

 しかし、平石貴樹氏の『アメリカ文学史』はそんなことは重々承知。その上で何ができるかに挑戦している、一種の〝アンチ・アメリカ文学史〟なのである。一見いかにもまじめそうな、重厚そうな佇まいで(「1500枚書き下ろし!」との文句が帯には踊る)、たしかにまじめな本ではあるのだが、その一方でいちいち〝文学史〟という方法に対する自意識がにじみ出して、オレはひと味ちがうよ、というシグナルを送ってくる。

 まず頁をめくって誰もが気がつくのは、そのいやらしいほどに読みやすい、わかりやすい文章である。とりわけ長大な作品内容をひとことでまとめてしまう手際は、おそらく英米文学研究者でも右に出る者はいないのではないかと思わせる。たとえば以下にあげるのはメルヴィルの悪名高い大長編『白鯨』を扱った箇所だが、実にあっけなく話がまとめられていてびっくりする。

……この作品[=『白鯨』]は、いっぽうに思想的な主題をあらわすエイハブ船長の悲劇、他方に捕鯨小説らしい、乗組員たちや鯨たちの物語が、縦糸と横糸のように織りあわされている。それらを渾然一体のものとして読むなら――そうせざるをえないが――読者は、この作品のスケールの大きさと物語の重層性に圧倒されるほかない。そこでは白い鯨たるモウビ・ディックは、エイハブ船長の敵としてきわめて「象徴」的だが、捕鯨をめぐる物語や情報があまりにも正確でくわしいので、それらによっていわばバランスをとり、ただの鯨の親分かもしれないものとなって、読者の冒険心をくすぐりつづけるのである。(p.153)

とても文学史的とは思えない。そりゃ、文学史だって読みやすいに超したことはないのだが、これまでの文学史が鉄仮面をかぶり、読者に対してガードを固めていたのにはそれなりのわけがある。文学史にはあまりにタブーが多いのだ。「はい、みなさん、何か質問ありますぅ?」などとうっかり訊いたりしたら、「うわ~、きゃ~、この小説つまんない、ありえない、フォークナー退屈! メルヴィル長い~! ホイットマンわけわかんない!」などとヤジが雨あられと降ってくる。そういうヤジをあらかじめ封じて、あくまでむっつりと大人の演説をするのが文学史というものなのだ。

 もちろん『文学史』というタイトルを掲げるからには、平石氏だって制度の中にいる。「アメリカ文学」なるものを守ろうとしている。しかし、今までの方法ではいけないとの強烈な意識が働いてもいる。そこで平石氏が案出したのが、先の引用にも表れていたような「何でも相談室」的な雰囲気づくりだった。いやらしいほどの読みやすさにつられて読み進めていくとわかると思うが、この箱入り本には「半径2メートル的」とでも呼びたくなるような、読書の圏域が仕組まれている。半径2メートルという空間にいっぺんに入り込めるのはせいぜい2~3人。その2~3人と膝を詰めて話合いましょう、お悩みに答えてあげましょう、というのがこの筆者のスタンスなのである。

 この「半径2メートル」には、いくつかの利点がある。まずあげられるのは軸足の固定だろう。冒頭ではっきり断っているように、平石氏がほんとうに興味があるのは「小説はいかにして面白いのか」というテーマだけである。いちおう〝文学史〟なので、ホイットマンやディキンソンといった詩人にはかなりの頁がさかれているし、エリオットやパウンドなどモダニズムの詩人も扱われている――敬意が表明され、それなりにフォルマリスティックな分析もなされたりする。しかし、こういうところで、平石氏はどことなく燃えないというのか、一生懸命ではあっても今ひとつ興奮していない感じが伝わってくる。それが、こと「小説のおもしろさ」という問題になると、ほとんど独断の域に踏みこみさえしながら、にわかに活気づいてくるのである。

 たとえば、以下はヘンリー・ジェイムズを論じた第12章からの引用だが、従来からよく引き合いに出されるウィリアム・ディーン・ハウエルズのリアリズム観などへの言及とともに両者の態度が較べられている。

そもそも、かれ[=ヘンリー・ジェイムズ]がヨーロッパに住むことに決めた大きな理由は、リアリズム小説が必要とする社会の風俗、階級的な伝統、庶民的また貴族的な文化、要するにホーソーンをめぐって(第六章4節)述べたように、小説の蓋然性の基準となるような安定した日常生活が、アメリカには存在しないということだった。「アメリカがノヴェル=リアリズム小説の題材に恵まれていない」という、ジェイムズがノヴェルの時代のさなかに示したこの認識は、説得力とタイミングを得て、にわかに有名になった。田舎者で正直なハウエルズは、「風俗などなくても人間の生活はある」と主張して、ジェイムズに全面的な支持をあたえず、アメリカにとどまり、アメリカのノヴェルの可能性に正面から取り組んだ。堂々としていたのはハウエルズのほうだったが、言うまでもなく小説家の勝負は、そうしたいさぎよさの有無で決められるわけではなかった。(p.257)

なるほど、よくわかる。話題が非常にすっきりと絞り込まれていて、「田舎者で正直なハウエルズ」が、難しげな顔をして視線をそらすジェイムズに対し、「風俗などなくても人間の生活はあるさ!」と直言しているさまが目に浮かぶようだ。しかもそんな「いさぎよい」ハウエルズが「小説家の勝負」では負けてしまうという。私たちの日常感覚に照らしてもいかにもありそうな勝負の綾だ。

 このように関心のポイントを、手を延ばせば届くような身近な地点に設定することで、実は平石氏自身が自分の語りに「半径2メートル」的な「蓋然性」を持たせているとも言えるだろう。そのことで、大教室の講義であれば目をつぶってすませることのできるような聴衆の素朴な読書体験・人生経験などを汲み上げることができるのだし、またそうすることで、無理してインテリ風の尖った加工をほどこした最近の〝研究〟の、より根の深い「退屈」を暴くこともできる。さらにいえば、このような「常識」の地点に立ち返ることで、通常の文学史に大量に登場する――そして今の私たちからするとどう見ても〝???〟としか見えないような――〝謎の名作〟というか、なぜ名作なのかいっこうにわからない作品群を、勇気を持って果敢に俎上に載せる準備もできる。そこで切り札として用意されているのは最新の批評用語ではなく、「だって、おもしろくないじゃん。ね?」というジェスチャーでもある。平石氏は「蓋然性」について語りつつ、こうして自ら「蓋然性」を演じてみせるのである。

 とはいえ、平石氏のこのような「蓋然性」という概念へのこだわりに、やや違和感を覚える人もいるかもしれない。なぜ今、「蓋然性」なのか。リアリズムとかリアルといった概念さえすでに「歴史化」(historicize)のかけ声の中でやや機能停止気味であるのに、平石氏はこの「蓋然性」という――おそらくprobabilityと英語で言い換えたほうがぴんときそうな――愛想のない哲学用語をベースにすることで、ほとんど数学的なほどの怜悧な視線でドライに小説作法を語ろうとしているかと見える。「小説のおもしろさ」という〝色事〟をきわめてシンプルに、しかしあくまで論理的に解きほぐすことに、ほとんど倒錯的な喜びを見出しているのではないかと思わせる。

 おそらくその通りなのだ。だからこそ、〝アンチ・アメリカ文学史〟なのだ。だからこそ、今更アメリカ文学史を語るという無鉄砲な行為にこの著者はふけることができる。しかし、これはなかなか困難な挑戦でもある。たいがいの文学史は、最終的には「小説とは何か」などという厄介な問題は途中で放棄して、「まあ、実際に書かれてしまったわけですから致し方ありません」という、大講堂的な慇懃無礼の中に逃げこむ。つまり歴史のせいにするのである。

 しかし、平石氏はそう簡単には負けない。そこであらためてかかわってくるのが、例の「半径2メートル」の空間である。「半径2メートル」の語りの特質は、その距離が限られているということだけではない。距離の短さに比例して、時間もまた短いのである。本書を通読しないまでも途中まで読んだ読者はおそらく気づくと思うが、そこにはほとんど時間が流れていないのである。出だしと終わりで書き手の意識にはほとんどぶれがない。まるで1500枚の間に、何も起きなかったかのようである。何と言うことだろう。文学史なのに、そこに書かれているのは「史」ではないのだ。無時間なのだ。

 600頁近くの本を、これほどの無時間の中で一気に語ってしまえる、そして読ませてしまえる著者の力量にはとにかく舌を巻かざるをえないが、私たちがほんとうに感動すべきは、著者が「歴史」なるものにたえずクエスチョンマークを突きつけ挑戦しているということではないだろうか。つまり、「ここにこうして語っているオレがいるのに、〝歴史〟よ、あんたは何者か?」というような、向こう見ずさと不安とのないまぜになったような姿勢がある。それは細かいレベルでいうと「宝探しの運動場」(p.28)など、あえて芯を外して野手の股間を抜くヒットを狙うような比喩の〝くすぐり〟によって、語り手の余裕しゃくしゃくさを示す方法にも表れている。しかし、より大事なのは著者の〝アンチ芸術派〟的な態度、つまり論理やモラルの破綻を時間の流れのせいにしてうっとり安心しようとするような、ナルシシスティックで耽美的な語りへの反発でもある。本書の中でもとりわけ力がこもっていて読みごたえがあるのは 小説言語と時間の関係を軸にスタイン、ヘミングウェイ、フォークナーといった作家を扱った16章と17章のあたりだと思うが(ただし、17章はやや手加減気味)、しばしばアートの観点から語られ、そのムードや叙情性が注目されることの多いこうした作家の作品を、例によって呆気ないほど明晰に論理的に説明しつくそうとする著者の〝無時間の語り〟の禁欲性には、妙な色気さえ漂うのである。

 こうしてみると、本書が事項羅列型の文学史になりえなかったのもほぼ必然なのである。これは語り、考えるための文学史である。「忘れた」という言い訳は許されない。語り手も、そしてもちろん読者も、半径2メートルの部屋に幽閉されているのだ。この拘束感がたまらない。快感なのである。最後にいくに従って徐々に強まる「おしかり調」にも何とも言えない味わいがある。実のところ本書は、文学史である必要さえなかったのかもしれない。たまたま、そこに「文学」や「歴史」があっただけ。半径2メートルには、よけいなものをおくスペースはない。思い出の品々も不要。必要なのは、今、ここにいる「私」なのだ。こんなに語り手が目立ってしまったら、結婚式のスピーチとしては相当独特というほかない。

 さて、これまでになく著者の持ち味が出た本書だが、平石貴樹未体験という人が手っ取り早くその味を試したいと思うなら、推理小説に触れたセクション(第十八章「ヴァン・ダイン推理小説の完成」)やアプダイクをやっつける所(第二十二章「アプダイクの問題点と文体」)などからはじめるのがいいだろう。最後の村上春樹のセクションについ目がいく人も多いかもしれないが、ここは必ずしも最良の部分ではないので要注意(おっしゃることはわかるんですけどね)。

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