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『ケータイ小説は文学か』石原千秋(ちくまプリマー新書)

ケータイ小説は文学か

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ケータイ小説とは何か?」

 「ケータイ小説」という言葉は聞いていたが、それほど読みたいとも思わなかったし、フランスで使っている携帯はインターネットの契約をしていないので、携帯では読めない。そんな時新聞で、瀬戸内寂聴さんがこっそりとケータイ小説を書いていたという記事を読んだ。何と好奇心の強い、お茶目な人(失礼)だろう。彼女が興味を持ったのならば、何か面白いことがありそうだ。だが、書籍版を買って読みたいというほどの意欲は起きない。

 そこで、邪道だが、まずはケータイ小説を知るための本を入手した。石原千秋の『ケータイ小説は文学か』だが、筆者は興味深い評論を書き続けている、早稲田大学の教員だ。ケータイ小説と同じ様に、この本も横組みになっている。形からして既にケータイの世界か? 

 まず石原は、タイトルにもなっている「ケータイ小説は文学か」という問いに対し、「二〇〇七年の文芸書年間ベスト五位のうち、四点までがテータイ小説だった。」と言う現実から、ケータイ小説はすでに「文学」と認識されているとし、むしろ「どのような文学か?」と問う事が大切だとする。もちろん、「ケータイ小説」を「文芸書」とすることの是非や、売り上げと「文学」との関係が曖昧だったりするが、今は深入りすまい。

 次に筆者は「リアル(現実)」と「リアリティー(現実らしさ)」について論じ、ケータイ小説には「リアリティー」がないのではなく、この世界では「リアリティーとリアルは同じもの」となっているので、「リアル」があれば「リアリティー」はいらないのだと分析する。確かに「現実」そのものを描くのであれば「現実らしさ」など論じる必要は全く無い。例えそれが非現実的であろうとも、「現実」なのだから。

 この後石原は、実際にヒットしたケータイ小説のあらすじを紹介しながら、分析を加えていく。Yoshiの『Deep Love』、Chacoの『天使がくれたもの』、そして美嘉の『恋空』。それを近現代文学の作品等と比較しながら、ケータイ小説では恋の「誤配」が大きな特徴となっていて、他の特色も含めて、その背後には「ホモソーシャル」の世界が存在すると言う。

 あらゆるものが記号化される現代において、性に関する言説だけは記号化されていなかった。ケータイ小説は性をも記号化し、「特権的な言説」が存在しない、「ポスト=ポスト・モダン」とも呼ぶべき世界を作り上げていると結論付ける。ヴァーチャル・リアリティーに囲まれて育った者たちが描く「リアル」は、普通の「小説」で育ってきた私たちの「現実」からは、一瞬遠く見えてしまう。しかし、まだ明確な形にはなっていない「何か」がケータイ小説には潜んでいるのかもしれないし、それを確認せずには前に進めないものなのかもしれない。


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