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『世界は文学でできている ― 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義』沼野充義(編著)(光文社)

世界は文学でできている ― 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義

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「聞き上手不要」

 沼野充義という名前をよく見かけるが、どこから読み始めていいかわからないという若い人には、案外この本はいいかもしれない。これは沼野氏が〝書いた〟というよりは〝しゃべった〟ものだが、濃密な沼野トークがたっぷり5つのヴァージョンで聴ける。

 昔から日本の文壇には座談カルチャーみたいなものがある。作家や評論家が顔を合わせ、ふだんの構えをちょっと外して、やや砕けた調子で本音をおりまぜながら実際に語る。いや、しゃべる。それがそのまま活字になる。「んなもの、単なる世間話ではないか!」との声もあるかもしれないが、こうした企画が意外とおもしろく読めてしまうのは、おしゃべりというものが相手の顔を見ながら行われるものだからだ。つまり、「この人なら、これくらい言ってもわかるだろう」とか、「この人には、これだけは言っておかないと」とか、場合によっては「このうすらトンカチめ」みたいな含みがあって、そのおかげで他所では聴けないような話が出てくることがある。ふだんは恥ずかしくて言えないようなナイーブな「夢」が、その場のノリで、つい、語られることだってある。

 本書は、ロシア文学者であり文芸評論家である沼野充義氏が、文学関係の各フィールドを代表する五人のゲスト(リービ英雄=作家、平野啓一郎=作家、ロバート・キャンベル=日本文学者、飯野友幸アメリカ文学者、亀山郁夫ロシア文学者)を招いて行った対談の記録である。といっても聴衆を前にした講義形式の対談で、しかも「中高生相手」のはずが、どちらかというと「中高年相手」になってしまったらしいのだが、沼野氏のしゃべりはそんなことは問題にしない。「私はケータイが右手で操作できなくて左手なんです。昔の電話の受話器は左手で持ったものなんですよ」みたいな余談をおりまぜながら、実に〝拡大的〟(〝拡散的〟ではなく)に話が進んでいく。各回ともゲストのフィールドに合わせた話題は設定されるものの、最終的には「この世界の文学はこれからどうなっていくのだろう」というような、地球的とも言ってような巨視的な問題意識がもくもくとわき出してくる。

 そんなおおらかな対談のひとつの大きな特徴となっているのは、各回のイントロダクションの長さである。第一章など「私のイントロダクションは短めにとどめ、できるだけリービさんにお話いただく時間をとりたいと考えております」との断りがありながら、なんと15ページにわたって沼野氏のイントロがつづき、リービ英雄の方は「沼野さんからいろんなお話が出ましたので、何を言っていいのかよくわかりませんが」と圧倒されてしまって、とりあえず3ページしかしゃべらないまま対談部分へとなだれ込むことになる。

 しかし、何の問題もない。このイントロダクションの長さに文句を言う読者はいないだろう。というのも、その内容の豊かさもさることながら、沼野氏のこの怒濤の〝しゃべり〟のおかげでこそ相手も警戒を解くのだし、そこに撒かれた話題をきっかけに先をつなぐこともできる。実際、この流れがあればこそ、リービ英雄も自身の「日本人に日本人であることのコンプレックスを突きつけられてコンプレックスになったというやっかいなコンプレックス」(42)のことを語ったり、他の「越境作家」と自分との違いを強調したり、お金のことは書かないという日本の小説とは違って「北京・上海には端的に言ってお金の話しかありません」(54)と報告したりと、少ない〝しゃべり〟の中でもちゃんと言いたいこと――そして私たちが聴きたいこと――を言っている。

 対談ではよく「聞き上手」などと言うが、そんなちゃちなレッテルは不要になる。どっちがホストでどっちがゲストかなどどうでもいい、語られるべきことはどんどん語ろうじゃないか、誰が言ったっていいんだからという衝動がこの本には溢れている。それが企画全体を貫く「J文学なんてちゃちなこと言ってられない、W文学でいこう」という姿勢とも重なる。 

 ハーヴァード大に留学してロシア文学を勉強したという沼野氏には、地域やジャンルにとらわれない思考法のようなものが身についている。もちろん、この本に登場する五人はいずれも越境的な傾向をもった方々だが、それでもこの沼野充義的な横溢性にはあきらかに押されている。ただ、おもしろいのは、長い長いイントロダクションに圧倒され、最初から劣勢に追いやられていながら、まるで陣地挽回するようにしてそれぞれが自分の持ち味をしぶとく出してもくるということでもある。さすがゲスト。

 中でもたいしたものだと思ったのは平野啓一郎である。この人もただの小説家とは思えないほど弁舌爽やかというか、頭脳明晰、議論流麗な人だ。『日蝕』でデビューした際も、当時の「新潮」編集長のところに乗り込んで談判したというのは有名な話だが、小説のマーケティングをめぐるコメントにはいずれも説得力がある。

たとえば「批評家の肥大」について曰く、

[ネットの普及以前は]一般読者の声がなかなか表面化しなかった。読者のほうでも、実際にはどんな作品が売れていて、それについて読んだ人がどう言っているかがわからなかったし、だからこそ、批評家の存在が過大視されてもいました。(107)

また「小説の売り出し方」について曰く、

文学が読まれていく上で何が大事かというときに、やっぱり、人の会話に上るということが本当に大事だと思います。映画の場合はけっこうみんなが場面の話をするし、登場人物の話をすると思います。あそこの場面がよかったとか、あの場面の誰がよかった、とか。だけど、今は文学ではなかなか場面の話にならない。(127)

「読者からの感想」について曰く、

僕の小説でも刊行して一ヶ月以内ぐらいにブログなどに感想を書いてくれる人は、僕の作品が好きな人か、純文学に興味のある人が大半です。もちろん、大嫌いだから一番に読んで悪口を書くという人もいますが(笑)。(中略)でも、刊行後三ヶ月くらいが経って、「平野啓一郎は特に好きでもないけど、話題になっているから読んでみようかな」という人たちが感想を書き始めたとき、それは売り出したときの感想とは、やっぱりかなり違います。文体に関しては、もう、読みやすかったか、読みにくかったか。それだけです。(130~131)

また「文学のつまらなさ」について曰く、

文学は洗練されすぎると、つまらないというのもあります。(131)

さらに「文学のおもしろさ」について曰く、

究極的には人間がページをめくる一番の衝動は「知りたい」という欲望だと思うんです。(138)

……などなど。太宰治にはいまひとつなじめなかったという逸話が典型的に示すように、平野啓一郎はときに私たちが作家に期待しがちな自意識過剰で、うじうじして、人前でしゃべるのが苦手というタイプではない。しかし、こだわりがないわけではない。大きなヴィジョンを語りつつも、それとは別のレベルの素顔もちらりとのぞく。沼野氏の語りに決して負けていない平野氏のなめらかな文学語りからはいろいろなものが読み取れるように思う。

 沼野氏自身の発言でとりわけ印象に残ったのは、ロバート・キャンベルとの対談で小説家のジャンル意識が話題にのぼったときのものである。日本の小説家にとっては、小説という形式が「家」としては意識されていないのではないかというのである。

 [欧米では]有名なプロの作家になると、ともかくできるだけ小説を書くことに集中しようとして、余分なことはなるべくやらないようにする。エッセイや日本でいういわゆる雑文をあちこちの雑誌の注文に応じて書くということも、日本みたいにはないんじゃないでしょうか。彼らがそうやって小説そのものに専念できる背景には、どうも、自分が携わっているジャンルがそもそも自分の家だという意識があるんじゃないかという気がしますね。

 逆にいうと、日本の作家は自分が書いている近代小説というものが自分の家だと、どこか心底から思えないようなところがいまだにあるんじゃないか。だから、近代の西洋的な小説ではないものに回帰するということも起こってくる。(195)

 まさに同感。ただ、おそらく書き手の側に――そして読み手の側にも――このような落ち着かなさがあるからこそ、日本語の小説には独特の「散文性」が生まれてくるのではなかろうか。小説以前に、〝語り〟や〝しゃべり〟があるのだ。そう考えてくるとこれは、沼野充義語りそのものの奥にある何かを示唆するようにも思えてくる。「おわりに」で、いささかの時差をへて吐露される震災後の心境も含めて、そんな感想を持った。氏のさらなる意見を――さらなる〝しゃべり〟を――訊きたいところである。

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