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『平成猿蟹合戦図』吉田修一(朝日新聞出版)

平成猿蟹合戦図

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「歌舞伎町の羊飼い」

 昨秋、仕事で九州を訪れたとき、ちょうど映画『悪人』の上映が始まった頃で、福岡で会う人の話題はもっぱら「『悪人』観た?」だった。原作は吉田修一の同名小説で、映画の脚本も吉田が担当している。この作家が長崎の出身でしばしば九州の素材を使うことは知られているが、このときの「『悪人』観た?」系の会話で主に話題にのぼったのは『悪人』の方言のことだった。

 九州の人曰く。「小説『悪人』の方言は完璧。福岡弁はもちろん、佐賀弁も長崎弁も久留米弁も正確に書き分けられている。あっぱれ。でも映画『悪人』の方言はイントネーションがちょっと違うんだよねえ……」。どうなんでしょう。筆者にはそのあたりの「ちょっと違うんだよねえ」を検分する能力はないが、今回の『平成猿蟹合戦図』でも方言が重要なのはまちがいない。

 小説の中心的な舞台となるのは新宿歌舞伎町。しかし、そこで展開される活劇のメインキャストは九州、大阪、秋田などを出身地とする人物たちで、彼らがまるで自分の出身地をマーカーで示すかのように方言による内的独白を行うことがこの作品のエネルギー源となっている。いわゆる〝地方パワー〟である。いやPC違反を承知で言えば〝田舎パワー〟。

 『悪人』では方言に由来する「田舎感覚」のようなものが、たとえば九州内での「都会vs田舎」の構図をあぶり出したりしつつも、作品全体としてみると、長大な音楽のような情感を生み出していた。あれだけ単純なストーリーで、あんなに早く犯人がわかってしまうミステリーなのに、読者に「どうしてもこの物語を最後まで看取りたい、途中でやめたくない」と思わせたのは、音楽にも比せられる麻薬のような情念の力であった。その情念が作品の持続力を生み出していた。

 では、今回のものはどうか。冒頭に描かれるのは、長崎は五島福江島から、姿をくらました夫を追って東京に出てきたホステス真島美月。その子連れの美月が歌舞伎町の雑居ビルのエアコン室外機の前でしゃがみこんでいるという場面から小説ははじまる。なかなかインパクトの強い出だしなのだが、そこには悲壮感はない。やがて出てくるのも〝いい人〟ばかりで、読者に対してにこやかに微笑みかけるかと思えるほど、根本のところでお行儀がいい。そういう意味では『平成猿蟹合戦図』はタイトルの通り、安心感に満ちたコメディ色全開の作品なのである。こんなゆるい雰囲気を設定してしまって、この先どうやって500頁分ものストーリーを展開させるのだろうと心配になるのだが、実は読みどころはまさにそこにある。

 ゆるゆるのコメディから出発した物語が徐々に、しかし確実にギアアップされていく。そのあたり、吉田修一の腕前はいつもながら見事だ。まずは痴漢で逮捕された高校教師・奥野宏司の登場。そして、そう間を置かずに奥野の実弟である著名なチェロ奏者・湊圭司が出てくる。いきなり壮絶な映像が湊の脳裏をよぎる。

湊の全身に蘇っていたのは、榎本陽介を轢いた瞬間の感触だった。
フロントガラスのかなり先に、通りを渡る酔った榎本の姿が見えた時の、握りしめていたハンドルの感触、踏み込んだアクセルの感触、がくんとシートに背中が張りついた感触、そしてこれまでの思いが塊となって飛び出そうとでもするような全身の破裂感。
すべてが終わるまで、一切の音がなかった。フロントガラスの向こう、あっという間に近づいてきた榎本陽介の顔は、ヘッドライトに照らされ、間が抜けたようにぽかんとしていた。(98)
 それまで新宿歌舞伎町が舞台なのに、やけに淡い牧歌性につつまれていた小説世界の顔色がここで一変する。

 そのまま走り去ろうとした時、なぜか無意識に足がブレーキを踏んでいた。今、思い返してみると、自分がやってしまったことを後悔したからではなく、自分が轢いた榎本の顔をこの目で見てやろうという残忍な気持ちからだった。確認してまだ息をしているようであれば、車をバックさせ、その瀕死の榎本をもう一度轢くつもりだったのだ。(98)

 うん、これぞ歌舞伎町の物語だ。「自分が轢いた榎本の顔をこの目で見てやろうという残忍な気持ち」などというと、あの『悪人』の世界を思い起こさせる。にわかに情念の気配が漂ってくる。

 しかし、小説はそのまま情念とバイオレンスの世界に突入してしまうわけではない。今、引用したのは物語の核心をなす出来事だが、吉田は一方でこうした暗い暴力の世界を見やりつつも、他方では淡く牧歌的世界を維持し続ける。そこで鍵になるのは、人間関係の転覆である。AさんとBさんが本来もっていた上下関係が、ある時点を境に逆転したり、無関係なはずのCさんとDさんがひょいとつながったり。吉田修一はほとんど魔術的な手際で、ごく自然にそうした関係の転換を行ってみせるのである。

 その最たる例は暗い過去をかかえた奥野兄弟が、美月とその夫である朋生との住む歌舞伎町の水商売の世界とかかわりを持つ顛末である。あれよあれよという間に、湊圭司、園夕子、真島朋生、浜本純平といった人物たちの間に妙な連帯が生まれ、その結果、純平という牧歌性そのもののような男の政界入りの話が持ち上がることになる。古代ギリシャの世界であれば間違いなく羊飼いをしていたであろうこのやや間の抜けたイケメン・ホストは、およそ文学性とは無縁のただの尻軽男に見えるのだが、作家はこの男を立派に猿蟹合戦の主役に仕立て上げてしまうのである。

 たいしたバランス感覚である。それもこれも吉田が〝弱い人〟を描くことをこの上なく愛するためだと思う。クールなスーパースターよりも、へらへらしたダメンズを描く。『平成猿蟹合戦図』に描かれる歌舞伎町の人たちはやさしい〝いい人〟ばかりで、そんなふつうさにあふれた微温的な小説は退屈なものになりがちだが、彼らは立派に物語を担う。それは彼らの弱さに物語の芽がひそんでいるからである。この弱さは、「ど田舎」と蔑まれがちな、スタバもデパートもないシャッター商店街ばかりの活気のない地方都市の弱さと地続きなのである。そういう「田舎」を背負っているところにこそ、彼らの物語がある。つまり作家が目指すのは、歌舞伎町を起点としつつも「田舎」から聞こえてくる現代の牧歌を聴き取るということなのだ。

 この小説のもっともメッセージ性の強い発言は、浜本純平の選挙マネジャーを買って出た園夕子のものである。物語の陰の主役と言っていい人物だ。

「私、思うんです。人を騙す人間にも、その人間なりの理屈があるんだろうって。だから平気で人を騙せるんだろうって。結局、人を騙せる人間は自分のことを正しいと思える人間なんです。逆に騙される方は、自分が本当に正しいのかといつも疑うことができる人間なんです。本来ならそっちの方が人として正しいと思うんです。でも、自分のことを疑う人間を、今の世の中は簡単に見捨てます。すぐに足を掬(すく)われるんです。正しいと言い張る者だけが正しいんだと勘違いしてるんです」(480)

 エンターテイメント色の全面に出たこの活劇作品の最後で、こんなに無防備で純粋なセリフを重要人物に言わせてしまうあたりに、吉田修一のやさしさと、〝弱さ〟への賛歌が表現されていると言えるだろう。

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