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『〈わたし〉を生きる――女たちの肖像』島崎今日子(紀伊國屋書店)

〈わたし〉を生きる――女たちの肖像

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「損得の彼岸の輝き」

                       津村記久子(小説家)


 以前は、大人になればもうちょっと楽に息ができるようになるだろうと思っていた。それは二十代で働くようになって、少しの金銭的な自由を得たことによって叶えられたかのように見えたのだけれど、それからまた年を食って、どんなふうに生きればいいのかがまたわからなくなってきている。

 筆者は三十三歳なのだが、単なる学生時代からの友達というだけの集まりの中にも、独身、既婚、子持ちの専業主婦など、様々な立場の女の人たちがいる。彼女たちと話をすると、それぞれに悪くてそれぞれに良く、とにかく正解がないということが正解、と思えてくる。自分と同じように独身の女の人であっても、映画と音楽とスポーツ番組にしか興味のないわたしを揶揄(やゆ)したりもする。主婦は、たくさん働いてえらいなあと言ってくれる。一緒に遊び回るなら、既婚でまだ子供のいない友人がいちばん気楽な気もする。人間関係は、明確なカテゴリの中でだけ形作られるものでもないのだった。

 そうやって生身の女の人たちに出会うと、それぞれはそれぞれに一所懸命だしそれで良いではないか、と思えるのだが、誌面やネットでは、それぞれの区分の女の人たちが血で血を洗う言い争いをしている。自分の生きてきたやり方が正しいと、相対する陣営に認めさせようと必死な人もいる。自分が何か間違ってきたような気がして苦しいのか、それともすごく暇なのか。

 両方を交互に見ると、ますます「正解はない」という気分になる。それはそれでいいのだけれど、ときどきは、身の処し方がまったくわからなくなり、あげく、自分が心底共感したのは映画『モンスター』の女シリアルキラーだけだったなあ、と思い出して、心にぽっかり穴があいたような気持ちになる。そんなアホで浮ついた三十代を後目(しりめ)に、四大卒の女の子の専業主婦願望が高まってたりして、女はもうわけがわからない、とさじを投げたくなるのだった。

 どう生きたらいいかわからない。本書は、そんなぼんやりしているわりに根源的で、厄介な悩みには、福音のように響く本だろう。リスクを負いたくない人、得だけしてそこそこ幸せになって、その程度のことを皆に誉めてほしい人が目を背けたくなるであろう、成功と裏腹の痛みと悩みに光を当てる。

 たとえば木皿泉さんの章では、普通の人生とはなんだろう、と改めて考えさせられた。すごく気があって、二人で完結しているような木皿さん夫婦には次々試練が襲いかかる。木皿泉というと、めちゃくちゃ成功してる脚本家以外の何者でもないのだが、私生活は苦難の連続なのだった。夫の木皿さんは脳出血に倒れ、半身が不自由になり、妻の木皿さんは躁鬱(そううつ)病を患ってしまう。仕事にまつわるOKを出すレベルが高すぎて、お金にだって苦労する。けれど、自分たちを支えてくれる人のことを決して忘れない、等身大の夫婦の姿が記される。最終的に浮かび上がるのは、苦難を受容して生きる、それでも幸福な一組の夫婦の姿である。そこで、普通にも幸福にも、誰にも敷衍(ふえん)できるモデルなどないことに、読者は気付く。

 また、夏木マリさんの、歌手になってだめになって、グラビアもやって半裸もさらした末の、虚飾のない仕事への姿勢にも、勇気のようなものを与えられる。夏木さんは、目の前のことをひたすら一所懸命やる。これがどうしても好きとか、こうなりたくてとかではなく、「恥かきたくない一心」とかで必死に真面目に動く。それが誰かの心に焼き付けられ、仕事につながり、マネージャーの砂田さんのプロデュース能力もあって、一段一段仕事のレベルをあげてゆく。その向こうで、夏木さんが本当にやりたいことを発見してゆく様は、一人の人間が仕事と向き合う物語として、非常な感動を誘う。「明日を信じられないから頑張れる」という言葉が、胸を抉(えぐ)る。それがいいことなのか悪いことなのかわからないが、自分が『モンスター』に共感した感触さえ思い出した。人間は明日で、未来で、孤独になりたくないがために必死に策を巡らし、あらゆる我慢をするのに、夏木さんは、すぱっとその「明日」の枷(かせ)を取り払ってみせる。

 山田詠美さんのすばらしくすっきりした在り方や、林文子さんの仕事と深く結びついた柔軟で興味深い人生は、すぐに誰かに伝えたくなるような魅力を湛(たた)えている。長与千種さんと風神ライカさんの生きる孤独は、逆説的に、誰かを「一人ではない」と奮い立たせる力強さを持っている。その他、ここに登場するすべての女の人たちの挑戦と戦いは、必ず読者に勇気を与えるだろう。

 傷つきながら生きたらいいと思った。投げやりに聞こえるだろうか。人間が傷つきながら前に進む姿は、他人(自分の気に入る女にだけ生きていることを「許可」する男と、男に気に入られてでしか生きられない女)の傍らに存在してはいけないものなのだろうか。そんなことは絶対にない。満身創痍(まんしんそうい)で、それでも立っているということを、ここに出てくる女の人たちの有様は肯定している。誰もが暇でケチで憂鬱でずるけている世界で、その姿がどれだけ輝いて見えることか。

 最後に、本書を総括するであろう萩尾望都さんの言葉を引用する。「でもね、異端のしんどさは時に武器になる。みんな、そのしんどさを胸に掲げて生きればいい。世界は変わります」

*「scripta」第21号(2011年9月)より転載

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