『暇と退屈の倫理学』國分功一郎(朝日出版社)
「退屈について教えてあげよう」
「退屈」はきわめて深遠なテーマである。パスカル、ニーチェ、ショーペンハウエル、キルケゴール、ハイデガー……近代ヨーロッパのおなじみの思想家たちはいずれも「退屈」に深い関心をよせ、あれこれと考察を展開してきた。
なぜ、こんな地味なテーマに?と思うかもしれないが、「退屈」を遡ると「アンニュイ」や「メランコリー」、「不安」といった同系列の概念を経由して、近代個人主義の根幹にある「私の気分」というたいへんややこしい問題に行きつく。「近代とは何だったのか?」という、これまでさまざまな学問領域で繰り返し立てられてきた問いにきちんと答えるためには、「退屈」の問題を避けて通ることはできないのである。
日本でも山崎正和『不機嫌の時代』など、「退屈」の周辺を扱う優れた考察がなかったわけではないが、正面切ってこの問題を扱うものはそれほど多くなかった。「白けの時代」はあっても(1970年代は「白け世代の時代」と呼ばれたのです)、退屈の研究者がこぞって退屈をめぐって口角泡を飛ばし侃々諤々するというような、「退屈の花盛り」とでも称すべき時代はいままで訪れたことはなかったし、これからも到来することはないだろう。
その理由ははっきりしている。「退屈」という語をタイトルに冠した途端、博士論文であろうと、単行本であろうと、シンポジウムであろうと、非常に魅力のないいかにもくすんだ、文字通り退屈な所業に見えてしまうのである。これほど輝きのないテーマはない。たとえば以下のようなタイトルが書店にならんでいる様を想像して欲しい。
『文化と退屈』
『お一人様の退屈』
『退屈の水脈』
『退屈が滅びるとき』
『羊をめぐる退屈』
『燃えよ退屈』
どの本もいかにもつまらなそうで、とても手に取る気がしないのは明らかである。
しかし、このような思考実験が示すのはなかなか興味深い事実でもある。退屈とは、潜在的にはたいへん魅力的なテーマなのに、なかなかそこに人の注意を向けるのが難しい事象なのである。とりわけ日本語の「退屈」や英語のboredomという言葉は、フランス語のアンニュイ(ennui)が何となくカッコイイのに比較して、とるに足らない心理として疎まれ、蔑まれ、また無視されてきた。だが、このような扱いづらさそのものが、ひょっとすると「退屈」の本質なのかもしれない。つまり、ちょうどウンチやおしっこについてと同じように「大人というものは、退屈についてやたらと語っちゃあいけませんよ」とでもいうタブーが形成されてきたのではないかという気がするのである。
そんな状況にあって、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』はたいへん果敢な試みである。タイトルにも堂々と「退屈」という言葉を冠し(さすがに『退屈の倫理学』は避けたようだが)、内容的にもこれ以上ないほど正面から退屈というテーマに切りこんでいる。そして、何より重要なのは、これが明らかに啓蒙書として書かれているということである。そこがまさにこの本の新しさではないかと思う。
すでに近代の哲学者たちは頻繁に退屈について論じてきたが、それらの多くは思弁や分析の形をとってきた。つまり、独り言すれすれの、それこそ〝つぶやき〟のようなスタイルで静かに語られるのが退屈だったのである。本書の中心部はハイデガーの退屈論の紹介に費やされているのだが、國分の解説を通して浮かび上がるハイデガーは、大きな声で聴衆に呼びかける演説者であるよりも、辛抱強く、孤独に、自分の心理の襞をめくりつづけようとする思索者なのである。
これはある意味では仕方のないことだ。退屈という心理は、愛や喜びや怒りとはちがって、対象に向かうわかりやすいベクトルが見えるものではない。むしろそれは心に生ずる凹みやくぼみなのであり、欠乏や不在や不可視としてしか語られえない。だから、ハイデガーの得意とするいわば「一時停止」の心理学を用いて、シーンと静まりかえった書斎で、まるで顕微鏡によって心の動きを検分するような精緻さとともに語られるのに適してはいても、威勢のいい大きな声でわかりやすく話題にするのは難しい。
しかし、著者の國分はそのようなブルジョア的な思弁性で「退屈」を語ることを拒絶したのである。退屈論者にしばしばつきまとうエリート意識と縁を切り、「俺」を主語にしたべらんめえ調のダイナミックな文体で退屈に切りこむ。
俺はこの本を書きながら、これまで出会ってきた、いや、すれ違ってきた多くの人たちのことを思い起こしていた。俺が彼らのことをこんなにも鮮明に記憶しているのは、間違いなく、自分は彼らにどこか似ていると思ったからだ。(12)この一節に明確にあらわれているのは、國分が「私の退屈」を語ることに終始しまいとしていることだ。俎上に載せられるのは、「みんなの退屈」なのである。「みんな~したらどうだ?」というメッセージとともに、〝実践〟が目指されている。
國分の議論のひとつの出発点となるのは、第二章で紹介される「定住革命」である。人間は元々定住志向ではない、絶えざる「遊動」にこそ向いている、という西田正規の説によりながら、定住せざるを得なくなることで人類は退屈を抱え込んだのだと國分は言う。そこには無理がある、と。この無理を打開するために、今のゆがんだ消費文化が形成されたのだということで、話は経済の話に進んでいく。
啓蒙を意識しているだけあって、議論は明晰である。「俺」を主語にした突っ張った冒頭部を引き継ぐようにして、本論でも明快な断言が力強く牽引し、有名哲学者、有名経済学者に対してもべらんめえ調の批判が投げかけられる。読者の中には、そうしたパフォーマンスめいた演出に反感を覚える人もいるかもしれないが――そして、たしかにやや性急と見える断言がないでもないかもしれないが――「退屈語り」というきわめてブルジョア的な圏域を、やや強引なまでの手法で開かれたものにし、この地味でくすんだテーマを、街行く大学生が気軽に話題にしうるようなものとして引き立てようとするその心意気には喝采を送りたい。哲学入門として読めるところもいい。
本書の芯をなすハイデガーの退屈論についての考察の中に、環世界という概念が出てくる。動物にはそれぞれ固有の知覚の方法があって、その動物固有の空間や時間をつくっているという考え方である。動物は自分をとりまくこの環世界に完全にとらわれている。しかし、人間はちがう。なぜなら、人間はひとつの環世界から別の環世界に移ることができるから。これは別の言い方をすると、人間がどの環世界にも属さずにいられるということである。この無所属の実感が、退屈のひとつの起源をなす。と同時に無所属となることが可能だからこそ、人間は考えることができる。哲学することができる。退屈とは、哲学するという行為のきわめて本質的な部分に食いこんだ何かなのだ。
本書は啓蒙書として、またメッセージの書として書かれているだけに、かなり明確な結論を用意している。浪費せよ、消費するな、というのだ。それだけ聞くと「???」なテーゼかもしれないが、通して読むとストレートすぎるほどストレートな議論であることが見えてくる。ただ、本書は結論を求めて読むたぐいの本ではない。おそらく結論を期待して読む人はむしろ期待はずれに終わると思う。大事なのは、こんなに大きな声で「退屈」が語られたということなのである。実践の書という体裁をとっているとはいえ、3月以来、「それどころじゃない」という雰囲気が支配してきた世の中に、およそ浮世離れした(と見えるが実はそうでもない)この退屈というテーマをぶつけてきたところを買いたいと思うのである。