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『ことり』小川洋子(朝日新聞出版)

ことり

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「怖い声が聞こえる」

「ことり」とは「小鳥」のことだが、平仮名になっていると擬音語の「ことり…」も連想されるだろう。さらに作品の後半では、ある禍々しい意味がちらっと示される。私たち読者は早くこの胸騒ぎから解放されたいのだが、実はこうした胸の不安と付き合い続けることもこの作品では大事になる。

 やさしいのか怖いのかわからない作品世界は小川洋子の得意とするところだ。この小説も冒頭からして、ただならぬ気配を漂わせる。何しろ、最初に登場するのは死体なのである。しかも、どうやらこれは主人公の死体。死体の検分からはじまるミステリー臭いっぱいの世界が、歯切れの良い、緊張感に富んだ語り口で描き出される。

 それで、どきどきしながら身構えていると、予想に反して殺人はおこらない。怨念や悪意ともあまり関係がなさそう。どちらかというとおだやかな善意に満ちたような、やさしい眼差しで児童たちを見守るような牧歌的な風景が広がってくる。ただ、やさしさとはいつもどこかで隠蔽的なもの。私たちは表面の平穏さの向こうに、何かただならぬものがあるかもしれないと感じ続ける。

 主人公は通称「小鳥の小父さん」。もちろん、生まれたときから「小父さん」だったわけではない。でも、その幼少期もあくまで「小鳥の小父さん」のそれとして小説中では語られる。つまり、彼は早くから、「小鳥の小父さん」というくすんだ匿名性を背負わされることを運命づけられているのである。

 小父さんには七つ年上の兄がいた。その兄が、ある頃から、皆にわからない言葉でしゃべり始める。彼自身が編み出したまったく独自の言葉である。しかし、なぜか弟である小鳥の小父さんにだけはその意味がわかる。小鳥の言葉に近いもののようだ。周囲の社会はこの兄弟とは距離をとる。やがて母は病死、父も不思議な死に方をする。だから小父さんはひとりで兄を守らなければならなかった。言語として認定されない兄の言葉に、彼だけが耳を傾けるのである。

 作者はこの展開を「悲劇」として描いたりはしない。微量のアイロニーがこめられているにせよ、全体としてみると密集が静かにほどけていくような穏やかさなのである。それがかえって胸騒ぎを呼ぶ。胸騒ぎと、戦慄と、哀感の混じったものだ。こんな微妙な配合を表現できる小説はそうない。

 やがて兄は唐突な死を迎えるが、兄は小父さんの人生に大きな足跡を残した。小父さんはその残されたものを追想し、反復するように生きていく。物語がほんとうに始まるのはここからである。小父さんが、紛れもない「小父さん」の年齢に達したところから、つまり、少年時代も青春時代も遠く過ぎ去った中年後期になって、小父さんにはほんとうの人生が訪れるのである。ほのかな恋心。あやしい出会い。そして嫌な事件。クライマックスも含めて、いずれも鍵となっているのは小鳥との交流である。

 この主人公はどうしてこんなに匿名的なのだろう、と読みながらやっぱり気になる。彼は主人公でありながらつねに「聞く人」だった。聞く人であり、読む人であり、見る人。しかし、図書館の司書に淡い気持ちを抱き、公園で不意に人に話しかけられたりする中で、そんな居心地のいい「聞く人」としてのアイデンティティが揺さぶられる。彼はいつの間にか紛れもない〝主役〟として立ち上がっているのである。そんな事態を秀逸な会話で示す場面がある。小父さんはかねてから断続的に頭痛に悩まされていたのだが、それを抑えるために両方のこめかみに小さく切った湿布を貼っていた。本当に効いているのかどうかわからない、しかも、そんなものを貼ったために皮膚が傷んでじくじくになっているのだが、いつしか小父さんは湿布を貼ったまま外にも出かけてしまうようになる。すると、そんな小父さんを目にとめ、話しかけてくる老人がいた。

「君」

 最初に声を掛けてきたのは老人の方だった。

「ここに、何かくっついているよ」

 老人はむくんだ指先を小父さんの方に向けてきた。思いがけず力強く、勢いのある声だった。

「あ、これは……」

 こめかみに手をやって小父さんは答えた。

「湿布です。頭痛をとるための」

「そうかね」

 老人は改めてしげしげとこめかみのあたりに目をやった。

「似合っているな」

 黒目は濁り、涙袋が膨れ、目尻には目やにが溜まっていた。

「そうでしょうか」

「うん。ちょっと気の利いた、装身具のようじゃないか」

 彼が喋るたび、額の皺がそれ自体別の生き物であるかのようにうごめいた。老人は再び傘の柄に手を戻した。

「はい」

 どう答えていいか分からず、小父さんは今朝貼ったばかりでまだ薄荷のにおいが残る湿布に、人差し指を這わせた。(158-59)

 小父さんはこうしてはじめて、自分が自分であることを「似合っている」と他人に認められるのである。しかも、よりによって頭痛を抑えるためのあやしげな湿布のために!

 この老人をはじめとして、小父さんと出会う人物たちはたいてい謎を残したまま消えていく。死んでしまう人もいる。図書館司書など、実はほんとうは小鳥だったのではないかという儚さを残して忽然と消滅する。でも、この小説は、ふわふわしたファンタジーがときに引き起こす「どうでもいいよ」という感じは読者には抱かせない。何だかどうでもよくない気がするのである。

 それはおそらくこの小説のところどころに〝怖い声〟が聞こえるからではないかと思う。〝怖い声〟というのは、威圧的だとか恐怖感を引き起こすという意味ではない。思わず「何でそんなことを言うのだろう」と思わせるような、でもなぜか深いところまで射貫くような比喩やコメントが、さりげなく挿入されているのである。たとえばお兄さんが独自の言葉を語るようになってからのこと。ようやくその言葉を少しだけ理解するようになった母親が、つい、意味を間違えてとってしまうことがあった。

 小父さんもお兄さんも、母親に向って「間違っている」とは言わなかった。どんなに形の違う小石でも、一緒にポケットに入れておくうち、不思議と馴染んでくるものだとよく知っていたからだ。(27)

「小石」は唐突な比喩だ。でも、よくわかるような気がする。そして、そんなふうにこちらをわからせる声が、何だか計り知れないもののように思えてくる。小父さんと親しくなった司書の女性との間でかわされる会話の中でも、気になるセリフがある。小父さんが図書館に入りびたって、鳥にかかわる本を読みふけっているのを見て司書がこんなことを言う。

「司書にはわかります。その人がどれくらいその本に夢中になっているか」

「そうですか」

「私、本を読んでいる人を眺めるのが好きなんです。自分で本を読む以上に」

 自分で本を読む以上に、本を読んでいる人を眺めるのが好きなんてことがあるだろうか。でも、きっとこれは一種の比喩なのだ。比喩だとは名乗っていないし、何を比喩しているのかもよくわからないが、どこか遠くの方を指さす言語なのである。

 こうした一連の言葉は、その唐突さゆえに、その洞察力ゆえに、読者にとってはどこか〝怖い声〟に聞こえる。そしてその声が、ところどころでこの小説を引き締めるのである。単なるアイロニーや、教訓ではない。得体の知れない透徹した視線の、その不思議な真実らしさが〝怖い〟のである。それがとりわけ強く出た一節を最後に引用にしよう。小鳥の小父さんがどんな人なのか、すごくよくわかる、と思わせる一節である。

 老人が処女の脂を虫箱に塗っていたように、小父さんは自分の頭に湿布を貼った。薄荷のにおいが鼻から鼓膜へたどり着き、ほんの少しだけ傷みの振動を和らげてくれた。湿布を貼ると目をちゃんと見開いていることができず、普段にも増して顔がうつむき加減になり、視界が狭まった。自転車で町を走るときも、スーパーで買い物をする時も、公園のベンチに座っている時も、自分の足先を見ている時間が一番長かった。自分の足先がどんな形をしているか、目をつむっていても詳細に思い描けるほどだった。(205)

 見ているのは小父さん自身の目ではない。外側から、小父さんの様子を目撃している誰かがいる。聞こえるのは、その「誰か」の声だ。ちょっと怖いけれど、なぜだか少しだけ、ほっとさせる声のように筆者には聞こえるのである。


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