『二〇世紀の戦争-その歴史的位相』メトロポリタン史学会編(有志舎)
「二〇世紀は、義和団の乱とボーア戦争[に]よって幕を開け、第一次および第二次世界大戦という二度にわたる未曾有の大戦争を人類は経験した。一九一四年以降、二〇年代の一時期を除いて地球上に戦争がなかった年はないと言われ、戦争や紛争によって命を落とした者の合計数は一億九〇〇〇万人に及び、二〇世紀は史上最も多くの人びとが非業の死を遂げた時代であった。二〇世紀が「戦争と殺戮の時代」と呼ばれるゆえんである」。
本書は、シンポジウム「二〇世紀の戦争-世界史的位相」を基にしている。シンポジウムの目的は、「第一に、第一次世界大戦、第二次世界大戦、戦後の一局面をイギリス、日本、ドイツなどの事例に基づいて実証的に明らかにすることにある。第二に、戦争という角度から二〇世紀を考察し、戦争が、何を変え、何を生み出し、そして現在に何を残したのかを問うことである。戦争によって刻印された二〇世紀を知り、現在の私たちが立つ位置を知ろうとする試みである」。
本書は、「二〇世紀の戦争-序文にかえて」、シンポジウムの報告(Ⅰ戦争の諸相、第一~四章)と報告後のコメントや寄稿論考(Ⅱ「戦争」を見る視角、第五~七章)からなる。最終章の「七「二〇世紀の戦争」を考える」がシンポジウムを総括し、つぎの4つの問題を指摘している。「一つは「二〇世紀の戦争」というもののとらえ方。二つ目は、記憶の問題で、今日は第一次世界大戦の受けとめ方が一つの焦点だったと思うのですが、第一次世界大戦の記憶が第二次世界大戦にどういう影響を与えたかという問題。三番目は、軍民関係とか軍隊という組織の性格をどうとらえたらいいか。四番目は、第二次世界大戦後の戦争の問題をどう考えたらいいかということです」。
「序文にかえて」では、「二〇世紀の戦争」を「総力戦体制を戦争動員に向けた完結したシステムとしてイメージすることは誤りではない」が、「第一次世界大戦時において現れた総力戦体制の構築は限定的であり」、「総力戦体制が本格的に成立した第二次世界大戦においてでさえ、「総力戦」という言葉では説明できないような多様な現実が存在した」ことを指摘し、つぎのような具体例を挙げている。「大戦末期に至るまで、ナチ党指導者は、兵器を扱う任務に女性を就かせることはおろか、女性らしさが失われることを懸念して女性が兵士用のズボンをはくことさえも禁止しようとした」。第一章では、つぎのような事例も紹介されている。「帝国のヒエラルヒー構造でインドよりも下に置かれていた西インド諸島からは、白人兵とともに黒人兵も動員されてヨーロッパに送られたが、直接の戦闘員として用いられたインド兵と違い、彼ら黒人兵は戦闘員にされなかった。イギリス陸軍省はその理由は「さまざま」であると述べていたが、白人との戦いに黒人を用いることはできないという人種要因が決定的であった」。
「序文にかえて」では、歴史学が戦争抑止に果たす役割についても、つぎのように述べている。「歴史学において、国民国家、民族、国境など対立を誘発しうる概念を批判的に再検討することを通じて、ヨーロッパ近代が作った世界史認識の枠組みを相対化し、将来の衝突を抑止するような新しい構想や歴史叙述が目指されている」。「歴史学の立場から、二〇世紀という史上最も多くの人びとが非業の死を遂げた世紀を乗り越えようと試みるのであれば、「植民地独立戦争」、「米ソ間の代理戦争」、「民族対立」、「総力戦」などのような安易な構図で、戦争を説明することではない。むしろ、戦争の諸局面をより具体的に知ることにこそ、対立を予防し、和解の手段を見つけ出す鍵が潜んでいるように思われる」。
日本では、第二次世界大戦を中心に、個別の戦争が語られる傾向があり、本書のように「二〇世紀の戦争」として世界史のなかで語られることはあまりない。そして、本書は、歴史学として考察し、歴史学の役割を論じている。個々の戦争を相対化することによって、これまで見えなかった個々の戦争の実相が見えてくる。さらに、戦争を通して20世紀像を見ることによって、これから構築していく戦争のない21世紀像を考えることができる。「まだ過ぎ去ろうとしない」「戦争の時代」を、いかに止めるか、本書にはそのヒントが多く示されている。