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『本にだって雄と雌があります』小田雅久仁(新潮社)

本にだって雄と雌があります

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 古い衣装箪笥が入り口のナルニア国、あかがね色の書物の中にあるという果てしない物語、高速道路脇の階段を降りた先に待ち受ける1Q84年…。ファンタジー、それは普段暮らしている世界のすぐそこにありそうでいて、同時に私たちには想像もつかない掟によって稼動している世界です。

 私にとってのファンタジー。それは関西です。忘れもしない、あれは新人会社員だった頃。会社の出張で訪れた大阪はまさに「すぐそこにあって想像もつかない掟によって稼動している」世界でした。

 まず公用語が違います。エスカレーターは左側ではなく右側に乗ります。電車の色がすべて原色に白を混ぜたようなムーミン色です。花屋に売っている花もムーミン色。このあたりから出張先のメーカーがなぜ商品にムーミン色を多用するのかがわかってきました。電車を降りると駅の展示台と思われる高い場所におじさんが座っていました。理由はわかりません。駅の出口には聞いたこともないコンビニチェーン店。道頓堀に出るとパジャマにサンダルの女性が大型街頭テレビを見上げていました。そのそばを警察官たちが見たこともない速度で自転車を漕いでいきます。ここは本当に日本なのだろうか。パラレルワールドにでも来てしまったのではないだろうか…。

 いやいやそんなディープなのは大阪だけだ、と言われるかもしれません。しかし京都や奈良なんかもっとファンタジーです。舞妓さんって本当に存在するのでしょうか。鹿を放し飼いにしようとか誰が考えたのでしょう。滋賀県なんか県のほとんどが湖なのですよ?(注:あくまで私の乱暴なイメージです。実際は県の半分くらいが湖なのですよね)

 こういうことを言うと関西出身の友人から「東京人の偏見だ」と非難を浴びます。先日もついうっかりコテコテ大阪人である紀伊國屋書店の社員さんに「大阪の人って東京に来ても標準語に直らないですよね」と言ってしまい「直すとはなんや。むしろそっちが関西弁に直せいう話や」と河内弁で怒られてしまいました。(注:河内弁がこういうものだったかどうかは定かではありません)私は私で「てやんでい! 標準語は東京弁じゃねえやい! おとといきやがれってんだ!」などと反論したかったのですが、こういう時、標準語しか使えないというのは不便ですね。東京弁(江戸弁)はもはやネイティブではないですし、無理に使おうものなら下町の頑固職人みたいになってしまいますし。

 このように関西の人々がどんなに否定したとしても、私の関西に向けるファンタジック・ドリームは止まらないのでした。「大阪には未だ豊臣秀吉の末裔が生きており大阪国が存在するのである」と言われれば「あり得る話だ」と信じてしまいますし「京都には着流しの大学生や神様や天狗や狸がうろうろしており夜になれば猫ラーメンの屋台がやってくる」と言われれば「やっぱり」と納得してしまうのです。

 そんな私の前で、前出の紀伊国屋書店社員さんが猛烈にお勧めしていたのが第21回日本ファンタジーノベル大賞受賞者、小田雅久仁が著した大傑作『本にだって雄と雌があります』でした。「大阪の旧家で今日も起こる幸せな奇跡」というキャッチフレーズ。「本と本が結婚して、新しい本が生まれる」という奇想天外な、そして本好きの心をこれ以上ないほど揺さぶる着想。

 …つまりあれでしょ。「関西+ファンタジー」に弱い本好きの私を虜にして、関西への憧憬と劣等感と偏見をさらに深めようっていうあの分野でしょ? と数ヶ月抗ってみたのですが、意志が弱い私はすぐに書店に走って買って読んでしまいました。

 息子に血脈の歴史を書き残す主人公が大阪出身の祖父與次郎を回想するところからはじまるこの物語は、昭和初期の東京で繰り広げる文学青年風の青春を近代文学風の文体で語っていきます。そのまま疑古典調の物語が展開されるのかなと思いきや、その文体の奥に密かに流れていた大阪弁独特のリズムが與次郎を通じてもはや隠しようもない力強さで脈打つようになり、読者を「本と本が結婚する」という、壮大なほら話へと引き込んでいきます。関西ファンタジー全開です。さらにそのほら話が與次郎の性格そのままに人を煙に巻く調子で爆走していくのかと思いきや、物語は急展開を迎え、本好きであれば誰もが溜め息をつかざるを得ない、ここで落涙しなければもはや本好きだとは言えないと断言したいラストに向かって怒涛のように流れていくのです。

 読み終わって私は思いました。「本と本が結婚して子供が生まれる…」あるよ。大阪の旧家ならあり得るよ。あり得る! そして、すでにこの本をお読みの方々はお気づきだと思いますが、著者はこの壮大にしてミニマムなファンタジーを関西だけでなく東京にもおすそ分けしてくれています。與次郎の宿敵、釈苦利先生の存在です。釈苦利先生は東京四谷の大邸宅に住み、そして本と本が結婚してできる幻書を収集しているのです。東京にもファンタジーが、もしかしたらあるのかもしれませんね。あるといいなあ。本好きの人は必読の一冊です。


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