書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『講談社現代新書 野心のすすめ』林 真理子(講談社)

講談社現代新書 野心のすすめ

→紀伊國屋ウェブストアで購入

『野心のすすめ』というタイトルを見た瞬間、何年も前からぐつぐつ煮えていた正体のわからない衝動にやっと名前がついたような気がしました。この本が売れているということは、私以外にもそういう人がたくさんいたということですよね。「野心を持ちたかった」「持ってよかったんだ」「それって恥ずかしいことじゃないんだ」「大声で叫んでもいいんだ!」……と、そのくらい思ってなければ手が出ないタイトルだと思います。著者はあの、林真理子氏ですし。

 たとえば私は2002年に大学を卒業して社会人になりました。安定の氷河期世代です。この話を始めるとだいたいバブル世代の人たちは「私(だけ)はその恩恵に預かってない」と言い出します。いやいやいや、私たちが言ってる恩恵って、一流企業の内定とか、ブランド品を買いあさりに海外旅行とか、そんな華やかなものじゃないですから。そこそこの企業でそこそこの給料をもらえる職に就く。フリーターになってもそこそこ生きていける。そんな綿埃のような小さな幸せですから。そんな風にいきりたくなってしまいます。じゃあ氷河期世代同士仲がいいかと言うと違うんですよね。「俺は○年卒だから。一番厳しい時だから」と、どっちがつらかったか自慢がはじまるのですよね。

 林真理子氏にはかなわないなあ、と思うのは彼女が、自分が駆けのぼってきた背景が、右肩上がりの時代であったことを、「いかなる論拠をもっても反論できない」と認めてしまうところです。林氏はすでに還暦寸前。この年代の人も、私たち同様、自分たちが恵まれた世代であることを認めないですよね。そうなるとこっちも「あープロジェクトX語りね!」「三丁目の夕日ね!」「そこからの若者批判ね!」と聞く耳を持てなくなりますよね。しかし、さすが林氏は違います。現状認識の甘い奴は許さない。だからまず自分にメスを入れて見せます。だからこそ「でも」に続く次の言葉「自分が本当に何も持っていないところからのスタートだったということには自信がある」が胸に刺さります。

 私は反省しました。氷河期世代の不幸自慢をしている場合ではありませんでした。若い頃の林真理子には本当に何もなかった。就職難がデフォルトの今ならいざしらず、好景気なのに40数社受けて1社も内定なし。時代のせいにできない。これはきついですよね。そこからはじまる怒涛の黒歴史披露の前には、さすがの氷河期世代も跪くしかありません。日給1800円の印刷工場の工員や、ハゲのオッサンに植毛するという貧しいバイト生活には対抗できても、洋服がダサくてデブでドジでのろまで、おまけに言動すら、今の言葉でいうと「痛い」ヤング・林真理子には、かける言葉がありません。よくここまで自分の黒歴史を書き出せるなあと、読んでいるこっちが苦しくなるくらいです。

 もしかしたら……私たち氷河期世代は、吹雪の中にいたのではなく、むしろ、ぬるま湯にどっぷり浸かっていたのかもしれません。「就職難だったから」「みんなそうだから」「私のせいじゃないから」と、心のどこかに、そんな逃げ道が用意されていた。少なくとも私自身はそうだったと思うのです。「夫婦共働きで、1.5人分稼げればいいよね」「服はファストファッションでいいよね」「お金を遣わなくても人生は楽しいよね」……足るを知る、と言えば耳障りはいいけれど、ただ小さく縮こまっているだけではなかったでしょうか。一度しかない人生。果たしてこのまま一生が終わってもいいのでしょうか? 

 いいわけない。心のどこかにフラストレーションが溜まっている。「自分はこんなものではないはずだ」という火がくすぶっている。山の中腹あたりのポジションを維持しているつもりが、山ごと沈降しているのではないかという不安に苛まれている。それはいったい誰のせいなのかと犯人探しがはじまる。少しでも上にいる人が許せない。「身分不相応だ」と叩きたくなる。お前も自分と同じように縮こまっているべきだと、叩きたくなってしまう。「今のままで充分幸せ」の結果がそれだとしたら、野心を持ったほうが、つまり、自分の足を鍛えてさっさと山を登ってしまったほうが、よほど心安らかかもしれません。

 最初に自分にメスを入れて見せた林氏ですが、そのメスは、私たち若者にも容赦なく向けられます。しつこいですが、還暦寸前とは思えない鋭い分析力はさすが『下流の宴』の著者というべきもの。私たち以上に私たちの現状を厳しく見据えていて、野心を持て、と煽られるのではなく、これからの時代は野心を持たなければ生き残ることすら難しいかも、と切実に思わされます。そしてそんな危機感を潜在的に持つ若者に、この本は売れているのだと思います。小さく縮こまっているのにもそろそろ飽きてきた、という人は予想外に多いのかもしれません。


→紀伊國屋ウェブストアで購入