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『メイキング・オブ・ピクサー』デイヴィッド・A・プライス(早川書房)

メイキング・オブ・ピクサー

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「アニメーションを織りなす文化的記憶」


ピクサーのCG技術は驚異的である。『トイ・ストーリー』から『ファインディング・ニモ』『モンスターズ・インク』などのヒット作を経て、2008年公開の『WALL・E』に到るまで、ピクサーは世界に先駆けて、コンピュータ・アニメーションの可能性を提示し拡張してきた。「pictureをつくる」という含意が込められたその社名に相応しく、ここ10年ほどのあいだに、ピクサーはアニメーションの「絵」に対するひとびとの感覚を大きく更新してきたと言えるだろう。

本書は、そのピクサーがいかなる時代的背景のなかで創設され、発展してきたかをつぶさに検証したノンフィクションである。一般的に言えば、ピクサーは『トイ・ストーリー』以降、つまり1990年代半ば以降にメジャーになった比較的新しい会社ということになるだろう。しかし、本書を読めば、むしろそこに到るまでの経緯にこそ、ピクサーの「今」を決定する素地があったことがわかる。

実際、本書には錚々たる固有名が列挙される。現ピクサー社長のエド・キャットムルは、1970年代の初めにユタ大学の大学院でCGの研究を進めていたが、彼の先輩にはグラフィカル・ユーザー・インターフェースの開発で有名なアラン・ケイ、ビデオ・ゲーム開発の先駆者であるノーラン・ブッシュネル、バーチャル・リアリティの研究を進め、後にネットスケープを共同創設したジム・クラークらがいた。キャットムルは、独自の数学的手法を用いて、三次元の曲線を表現する画期的な技術を編み出す一方、「テクスチュア・マッピング」(物体の表面にさまざまなイメージを投影する手法)を偶然に考案し、CGの可能性を一挙に広げることに成功したのだが、彼のその探求には「コンピュータ・グラフィックスの世界のアテナ」(26頁)とも言うべきユタ大学の知的空気が作用していたのである(ちなみに本書によれば、学部時代のキャットムルは、当時大学院生だったアラン・ケイの授業にも出ていたという)。

その後、キャットムルは紆余曲折を経て、ジョージ・ルーカスの下で働き始める。そして、ルーカスフィルムのコンピュータ部門に属しつつ、同時に『スター・トレック2』のCG制作などを請け負い、着実に頭角を現していくことになる。本書では、そのキャットムルらの営為に加えて、当時ディズニーを解雇されたばかりのアニメーターのジョン・ラセター、さらにアップル社に続く経営上の成功を狙っていたスティーヴ・ジョブズらがどのように関わり、いかにピクサーの基礎を築いていったかが活写されており、読み応えがある。1995年に公開された『トイ・ストーリー』は、あくまで70年代から80年代のあいだに築かれたこれら人脈の結晶なのだ。

このように、ピクサーという集団は、アメリカの技術と文化が交差する、そのもっとも先鋭的な場所で育ってきた。したがってそこには、映画、コンピュータ、アニメにまたがる諸経験が凝縮されている(キャットムルやジョブズを通じた1970年代におけるコンピュータの思想、ルーカスフィルムを通じたSFX映画、ラセターを通じたディズニーや宮崎駿のアニメーション…)。おそらく本書の最大の教えというのは、ピクサーにとってはまさに技術こそが最大の――そしてまたきわめて複合的な――「思想」だということにある。ピクサーの描くキャラクターの一挙手一投足に、先行する文化的記憶が流れ込んでいるということ。それに気づかせてくれるだけでも、本書は読む価値がある。

それにしても、私たちの映像的体験が、歴史的に形成された「思想」の上に成り立っているということ。当たり前のようだが、これはなかなか奥深いことではないだろうか。

たとえば、本書の翻訳とほとんど同時期に出た本のなかで、日本のアニメ監督である神山健治は「アニメは近年特に、外側(現実)の世界を意識しないで済ませるということが出来なくなってきている」と主張している(『神山健治の映画は撮ったことがない』193頁)。そういう現実志向は、ある面においては、ピクサーの思想にも共通しているだろう。実際、本書には、次のようなエピグラフが掲げられている。「キャラクター・アニメーションっていうのは、物体をまるで生きているかのように動かし、そしてそういう動きのすべてが、自分の思考プロセスによって産み出されたように見せることだ……。生きているという幻想を与える思考。」(ラセター)。

アメリカと日本の創作者がそれぞれ、アニメーションと現実の関係を再構築し始めていることは興味深い。ただし、ここで重要なのは、一口に「現実志向」と言っても、その内実がまったく異なっていることである。神山にとっての「現実」が、9・11以降の政治状況=監視社会化や情報技術の進化と深く関わっているのに対して(その方向性の一端は、現在放映中の『東のエデン』に見ることができる)、ピクサーにとっての「現実」はあくまで、ただの物体(データ)に「生きているという幻想を与える」ことに置かれている。言い換えれば、前者の現実が、あくまで人工的なメディアによって構成されるものであるのに対して(だから、『東のエデン』では、インターネットやケータイを通じた噂話の力が重視される)、ピクサーのリアリズムは、自然に散らばった「モノ」をシミュレーションすることに置かれるだろう。

実際、ピクサーのフィルムの感動には、「モノ」のリアルな質感が欠かせない。ピクサーは「写実的なリアリティ」ではなく(なぜなら作品自体は荒唐無稽なのだから)、むしろ「感情的なリアリティ」を緻密な物理演算によって導き出すことを目指してきた。彼らは、実在しないはずのモノに、リアルな物理的動作を獲得させることによって「まるで生きているかのよう」な錯覚を産み出す。裏返せば、ピクサーにとって最大の脅威というのは、その錯覚=幻想を保つことができず、観客を文字通り「幻滅」させてしまうことである。

興味深いのは、そういう技術的な事情が、脚本の内容にも直に反映されていることだろう。これについては、ピクサーの作品における「人間」のポジショニングを考えてみるといい。ピクサーの世界観においては、人間というのは一種の異物なのであり、ときにモノや動物の世界に敵対し(『トイ・ストーリー』『ファインディング・ニモ』)、ときにモノや動物によって庇護される存在(『モンスターズ・インク』『レミーのおいしいレストラン』)として扱われている。人間はしばしば、物体を生命のない「ただのモノ」として見てしまう。だが、モノが物言わぬ「ただのモノ」になってしまうこと、それこそが観客にとって――そしてほかならぬピクサーにとっても――最大の悲劇なのではなかったか?(たとえば『WALL・E』の観客は、表情を失った主人公WALL・Eを目の当たりにしたとき、彼から見捨てられ突き放された感じがしなかっただろうか?)。要するに、モノの魔術にかからない人間というのは、作品の中でも外でもいちばん厄介な存在なのである。

いずれにせよ、ピクサーの映画では、非人間的で無機的な「モノ」こそがもっとも感情豊かな存在として扱われている。「無生物をキャラクターとして使うことに、演劇的価値が潜んでいる」(140頁)というラセターのひらめきが、人間よりも人間らしい「モノ」をつくるという戦略を可能にしたのだ。とはいえ、繰り返せば、その「モノ」のリアリティへのこだわりは、ピクサーが独力で獲得したものというよりも、1970年代以降におけるアメリカの技術・文化のひとつの帰結だと考えたほうがよい。ピクサーのフィルムには、ここ30年のアメリカ文化の歩んできた「歴史」が刻印されているのであり、だからこそそこには、大人から子どもまで多くの観客を惹きつけるだけの強度が満ちる。本書は、そういう感動の「からくり」を多面的に示しているという意味で、優れたノンフィクションだと言ってよい。


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