『ミドルワールド』マーク・ホウ(紀伊國屋書店)
「休みなきランダムな世界」
本書の表題である「ミドルワールド」は、素粒子レベルのミクロワールド(ナノメートル以下)と、人体や動植物、宇宙といったマクロワールド(ミクロン以上)の中間にあるスケールの領域を指している。具体的には、細胞やウイルス、シャンプーやリンスなどの合成高分子、さらにはポリマー分子から成るゴム樹脂などが、ミドルワールドの住人に数え入れられるだろう。本書で示されるのは、このミドルワールドの物質が、マクロワールドともミクロワールドとも異なる「偶然的」なふるまいを見せるということである。
むろん、古くからエピクロスのように、物体の偶然的な挙動に関心を寄せた思想家もいた。しかし、この領域の科学的探求が本格的に進み出したのは、やはり19世紀に入ってからである。著者マーク・ホウは、このミドルワールドの近代科学上の発見者として、ロバート・ブラウンからアインシュタインに到る軌跡を描き出す。1827年、ブラウンは実験中にたまたま、花粉粒が水滴のなかでランダムに、また休みなくダンスする運動を発見する。このランダムな運動は、当時の主流であったニュートン的な決定論を脅かすものであったが、ブラウンだけではそこに理論的な意味づけを与えることはできなかった。彼の発見が日の目を見るには、アインシュタインが1905年に発表したブラウン運動についての論文を待たなければならない。同年に発表されたアインシュタインの特殊相対性理論や光の量子説には知名度の点で及ばないものの、この論文は、ルートヴィヒ・ボルツマンの分子運動論についての統計学的研究を手がかりにして、分子のランダムウォークを数学的に記述する道を開き、ブラウン運動を理論化することに成功した。かくして、ブラウン運動は最初の発見からおよそ80年後、ようやくはっきりした輪郭を与えられたのである。
ここから著者の話は、より具体的なレベル、すなわち生命の問題に移っていく。生命の基盤となる細胞は、タンパク質、酵素、それにDNAやRNAなど、まさしくミドルワールドのスケールの存在者を含んでいる。このスケールにおいては、当然物体は静止することがなく、たえずブラウン運動による衝突を起こしている。生命活動が可能になるのは、こうしたミドルワールドのダンスを通じて、タンパク質の「折りたたみ」が最良の均衡を見出すことによってである。タンパク質が精密な鎖を手に入れるには、ブラウン運動によって身をよじりながら、安定的なかたちへと折りたたまれなければならない。その際、タンパク質はできるだけ低コストのコースをたどって、自己形成していくことが知られる(「タンパク質のエネルギー地形」の問題)。とはいえ、そこに本質的な脆弱性が存在していることも確かなのであって、ひとたびその「折りたたみ」にエラーが生じると、それがアルツハイマー病やクロイツフェルトヤコブ病の原因になると言われる。いずれにせよ、著者が言うように「生命は、化学の法則とミドルワールドのランダム性との間のものすごく繊細な均衡の結果なのだというのが、ここでの教訓だ」(220頁)。実際、細胞は、ランダム性を受け入れつつも、不規則性をならして偏向させるような装置を備えている。それゆえに、生命体は、不規則なブラウン運動によっても自己崩壊することなく、「繊細な均衡」を実現することができるのだ。
付け加えれば、こうした「小さなもの」のレベルの科学的発見は、人文的な領域にも影響を及ぼしている。周知のように、ミクロワールドにおける素粒子の量子的なゆらぎの研究は、20世紀後半の理論物理学において、飛躍的な発展を遂げた。近年のSFで好まれる並行世界のモチーフも、こちらの量子的なゆらぎに関わる。他方、ミドルワールドにおける分子的なレベルのゆらぎもまた、社会を語る隠喩に着々と組み込まれている。このことは、ブラウン運動に象徴されるランダム性を排除するのではなく、むしろポジティヴに利用するための新しい社会学的知が要求されつつあるということを意味している。
最近でも、理論物理学者のレナード・ムロディナウ『たまたま』(ダイヤモンド社、2009年、原題はThe Drunkard’s Walk)が、まさにブラウン運動を比喩として用いて、私たちの生活にいかにランダム・プロセスが満ちているかを紹介した。あるいはもう少し人文寄りの理論としては、何と言ってもニクラス・ルーマンの社会システム論を挙げておくべきだろう。生体においては、細胞と細胞の外のあいだに物理的な境界線があるがゆえに、細胞内(システム内部)でのランダム性と法則性のあいだに安定的な均衡がもたらされる。それとの類比として、社会においては、そうした明確な境界線のかわりに「観察」が介在し、それによって自己言及的なシステムが確立され、ランダム性と法則性が配合される。「システムは自分自身にとっての規定不可能な未来に直面する。しかしまた、予見不可能な状況に適応するためのストックを蓄積していくことにもなるのである」(『社会の社会』馬場他訳、法政大学出版局、2009年、35頁)。
むろん、生命現象を社会現象に安易に適用することは慎まなければならない。それは往々にして、生命のイメージを借りただけの軽薄な意匠に留まるからだ。そのような弊を避けるためにも、本書で示された類の基礎的な知識は、やはり最低限把握しておく必要があるだろう。いずれにせよ、物体を観察するスケールの変更が、そのまま知に質的な変化をもたらすということ、それは本書の記述からよくうかがい知ることができる。