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『ウィトゲンシュタインと精神分析』ヒートン,ジョン・M(岩波書店)

ウィトゲンシュタインと精神分析

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「トーキング・キュア」

 ウィトゲンシュタインフロイトを高く評価しているのは意外だが、よく考えてみれば、不思議ではないのかもしれない。どちらも語ることによる治療(トーキング・キュア)を目指していたからだ。ウィトゲンシュタインは、言語の形而上学的な使い方のために、哲学のうちに「瘤」(『哲学探求』一一九節)のようなものができているのであり、日常的な言語の分析によって、哲学の瘤を治療することができると考えていた。それだけではなく、「ウィトゲンシュタインにとっては、セラピー(治療)とは二人で思考を共有すること」(p.15)だったであり、フロイトの治療の実践と共通する要素があったのである。

 本書は、レインとも共同で活動したことのある精神療法士というかなり特別な立場から、ウィトゲンシュタイン精神分析の関係を考察した興味深い書物である。ウィトゲンシュタインとも離れ、フロイトとも離れたところから、その共通性をみいだす手法が参考になる。

 ウィトゲンシュタインは一九一九年にフロイトの著作を読んでから、「残る生涯の間、フロイトはかれが読むに値すると考えた数少ない著者の一人となった」(『ウィトゲンシュタイン全集』第一〇巻、二〇七ページ)と語っており、みずからを「フロイトの弟子」(同、二〇八ページ)と自称していたという。これはもちろん諧謔の言葉だが、ウィトゲンシュタインフロイトの『夢判断』や『機知』のうちに、自分と同じ問題をみいだしていったことは興味深い。

 特にウィトゲンシュタインが大きな関心をもったのが、アスペクトの問題だった。精神分析が患者たちに示すのは、患者たちが日頃熟知している事柄について、それまでとは違った視点を提示して、その事柄をまったく別の視点からみるようにさせるということだった。それはアスペクトを変えさせるということである。「精神分析家たちはしばしば、分析をうけている人々に、アスペクトを認知させる。もっとも彼らはそれを解釈と読んでいるのだが。かくしてほとんどの転移の解釈は、アスペクト認知の問題ということになる」(p.27)。

 そして著者が指摘するように「アスペクト認知というおなじみの経験は、ウィトゲンシュタインの治療の重要な特徴だった」(p.26)。ウィトゲンシュタインは「私は、ある顔を熟視し、突然、他の顔との類似にきづく。その顔が変化しなかったことは、分かっている。にもかかわらず、私はそれを違ったふうに見ている。この経験をわたしは〈あるアスペクトの認知〉と呼ぶ」(同)と語っているのである。

 もちろんフロイトウィトゲンシュタインが明確に対立する場面もある。第一にフロイトは科学主義的な立場を捨てなかった。そして「還元主義と決定論」(p.57)に依拠して、すべてのことを説明しようとするところがある。しかしウィトゲンシュタインにとっては、それは盲信に近くみえる。彼は「なぜすべてのことの説明がなければならないのか」(同)と問う。それは著者の指摘するとおりだと思う。しかしフロイトはすべてを説明しようとして、行き詰まったところに問題をみいだすことを試みていたのであり、それを咎めるべきではないだろう。そのことは、『夢解釈』のうちで、分析が進まなくなる「臍」の存在を認識し、そこに問題をみいだしていたことからも明らかだろう。

 第二に、フロイトは心の内部が意識にとっても「隠れされたもの」であることを主張する。これにたいしてウィトゲンシュタインは、「内的世界の神秘性を取り除き、生き生きとした精神を取り戻そうと努めた」(P.52)。これも著者の指摘するとおりだろう。ただフロイトは内的な心の中に隠されたものが、つねに身体の疾患として、あるいは言い間違いとして、夢として現れることを指摘し、そこから隠されたものをみいだそうとする。精神分析の理論では、知ることが重視されているものの、精神分析の実践では、「知ること」よりも「了解すること」が重視されているのであり、患者はこの実践に反応し、病を克服することを学ぶのである。

 だからフロイトウィトゲンシュタインの違いも、逆の意味で二人の哲学の隠れた共通性を示しているのかもしれない。「痛み」についてのウィトゲンシュタインの考察も、兆候についてのフロイトの考察と照らして考えてみると、おもしろいのではないか。

【書誌情報】

ウィトゲンシュタイン精神分析

■ヒートン,ジョン・M.著

■土平紀子訳

岩波書店

■2004/12/22

■121p / 18cm

■ISBN 9784000270809

■定価 1575円


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