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『訪ねてみよう 戦争を学ぶミュージアム/メモリアル 』(岩波ジュニア新書)

訪ねてみよう 戦争を学ぶミュージアム/メモリアル  →紀伊國屋書店で購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 序文で、高橋哲哉は1945年1月1日の日記を引用し、「日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している」という文章に注目している。それ以前から日本は戦争をしていたのだから、この文章はおかしい、というのである。その日記を書いた評論家、清沢洌は、自分が日常生活している場が戦場になって、初めて「戦争」を実感したのだ。このことから、2001年9月11日にアメリカ合衆国が受けた衝撃が想像できる。また、なぜそのとき真珠湾攻撃が話題になったのかもわかる。アメリカ人は、真珠湾攻撃以来初めて、日常生活している場が戦場になって、「戦争」を実感したのである。朝鮮戦争ベトナム戦争も、湾岸戦争も、アメリカ人は「戦争」を経験していなかったのである。

 本書は、岩波ジュニア新書の1冊として書かれ、「若い世代が戦争について学び、考えるためのミュージアムやメモリアルの活用方法を解説」している。日本国内26だけでなく、海外11の施設も紹介している。戦争について語ることは、国際的、国内的に微妙な問題を含んでおり、著者は慎重にことばを選びながら、各施設の設立の由来、問題点、見所などを紹介し、各章の終わりに「COLUMN」と「より深く知るために」というコーナーを設けて、読者に考えさせ、発展して学習できるように配慮している。

 著者のふたり、寺田匡宏と笠原一人は1970年と1971年生まれで、ともに戦争を実際に体験した世代ではない。しかし、ふたりはともに高校時代まですごした神戸が1995年に大震災に見舞われ、震災の「記憶」の残し方について議論してきた経験をもつ。とくに「負の記憶」をどのように伝えられるかを考えてきた。そして、「記憶」と「災厄」を共通のキーワードとして戦争をどう伝えるかを考えた結果が、本書である。著者は、本書を書くにあたって、3つの基準、①アジア/日本の外からの視点、②記憶/現在の視点、③非当事者/当事者の視点、を設けている。

 本書の成功の第一は、著者のふたりがともに戦争研究の専門家ではなく、笠原が近代建築史、寺田が博物館の歴史展示について研究していることだろう。ふたりに、戦争責任や戦後責任を問う姿勢はみられない。それは、敵と味方、あちらとこちらを分ける「二分法」を見直そうとしていることからも明らかだ。ポスト戦後の視点から、戦争を真摯に見つめ、若者たちといっしょに考えようとしている。そして、展示する建物や部屋の空間にこだわっている。この発想に、歴史研究者にはない新鮮さを感じた。戦争とはなにかを知る空間、考える空間が、ミュージアム/メモリアルであることを伝えている。

 本書を読んでいて気になったのは、冒頭にあるように「戦争」を経験するということが被害を受けることであるなら、ミュージアム/メモリアルは被害を記憶する場で終わってしまうということである。加害者は外からやってきた者が多く、加害者の立場でミュージアム/メモリアルを建設することは稀れである。それを克服するためにどうすればいいのだろうか。

 靖国神社のすぐ近くに、厚生労働省戦没者遺族の援護施策の一環として平成11年に開館した昭和館がある。戦時下の生活、戦後の復興を中心に、国民生活上の労苦を後世代の人びとに伝えることを目的としている。靖国神社に参詣した前後に、訪れる人も少なくない。この昭和館が、「大東亜共栄圏」に含まれた国や地域の人びとによる日本との戦争体験をも展示する博物館だったら、どうだろうか。これらの国ぐには、日本政府にたいして戦争への謝罪と償いを要求している。その根拠となる戦争被害の実態について、日本人一般市民に語る常設の場があれば、政治化した政府間のやりとりではない、民際交流の場となり、ポスト戦後時代の新たな展望が開けるのではないだろうか。自ら招いた労苦と突然降りかかった労苦との違いも、わかるだろう。一口に「戦争」といっても、経験と実感に大きな違いがある。

 本書を通じて戦争を学んだ世代から、新たな交流の時代が始まることを期待したい。

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