書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『トーキョー・バビロン』馳 星周(双葉社)

トーキョー・バビロン

→紀伊國屋書店で購入


BGM(Ministry/The Land of Rape and Honey(1988))

「時は流れる
 絶望的なほどの速さで
 目の前を流れ去っていく」

ロウの入り方が違って、その引っ張り具合が違って、ロウから2速、2速から3速へのタイミングも、どうもタコメータの触れ方が、そのカクッというタイミングが違って、吹き上がるトルクも違うので、ディーラーのテクニカルスタッフに聞くと「えっ?今度のエンジンの設定は低速を引く感じが違う設定になってるんですよ」と言われて、時代がそうしているのか、そうしたかった人がいたのか、新しいエンジンコンセプトを知りたくなる。でも峠越えにはいいかもしれない。


週末はあっという間に過ぎた

悩みに悩んだ末に選んだのはBMWのZ3

とりあえず紀香の眼鏡にはかなったようで

嬉々として助手席に座っていた

(27章)


初夏の通り雨

初夏の蓼科に向うあの峠で、3速から2速へ吹き上がるタイミングに合わせて、一瞬やんだかのような通り雨、フロントの視界にグレーの雲の切れ間から、その奥にマリンブルーの青空が広がる。思い出したかのような間欠ワイパーを止めると、雨を降らす雲は右から左へ墨流しのように速く流れて、我々か、または雲かのどちらかがスローモーションになる感じになる。その時をねらって、神様が用意してくれた至福のタイミングで曲が変わる。そんな時は、 外の音が遮断されてクーラーの効いた車内で、少し昔の、いや、だいぶ昔のあの頃の感覚を想い出す。横を見ると紀香は静かな寝息とともに目を閉じていた。


sometimes I think I'm happy here

sometimes I still pretend

I can't remember how this all got started

but I can tell you - exactly - how it will end


I am still inside here

a little bit comes bleeding through

I wish this could have been any other way

I just don't know what else I can do


everyday is exactly the same

there is no love here and there is no pain

(from 'with teeth' (2005))


毎日が全く同じで、その人は頭の良い女性で、それで良かった。


それにしても、このエンジンのレスポンスはいいかもしれない。

「でも、よく分かりましたねえ」と半ば御世辞気味に言われても、でも、何か その業界を垣間見た感じになってその気になって

「いや、この設定、タイヤのつかみがいいですよ」

・・・とか、後で後悔する。


昔で言うと森村誠一か、最近だと桐野夏生だとか、読むまではどうしてもという感じでもないのに、読み始めるとグッとその世界に引き込まれて行く。

とにかく読ませてくれ、静かな寝息に目を閉じている間だけでもいいから。

その業界を垣間見た時の後ろめたさ、のような、または、さらには、その業界にいるかのような錯覚に溺れる。


要は、表も裏も、「うだつ感」に帰着して、30そこそこでピークと転落を経験した主人公3人の起死回生を賭けるドラマ。

前にも言ったように「うだつ感」というのは大切で、自分にそういう感覚を引き込む人でいたいもので、そういう人と付き合いたいもので、でもそこは本当は分かりやすく、でも「うだつ感」がない人は自分では気がつきにくい。自分の「うだつ感」をも引きずり下ろす人とは付き合うな、この手のドラマはいつもそう読める。


いつもの道のりは、まだかまだかと感じるのに、そんな長い道のりがあっと言う間に過ぎてしまう。

バカラに狂うサラリーマンと復活をねらうホステスが、パークハイアットで会おうが、会うまいが、そんな一つ一つのことよりも、とにかく文章を私の前で流してくれ。まったくもって、健さんの映画を観た後に映画館を出たかのように、街中を歩く気分も違う。


馳星周氏の作品は、ここで引き合いに出すのも何ですけど、何故かかつて発禁になった衛慧の「上海宝貝(2001)」とかを思い出して、というのも、それとはまた違った東洋感、というか、「上海宝貝」が東洋人が西洋から見たとしての東洋感であるのに対して(ある意味「透明に限りなく近いブルー(1976)」もこの手かとwebでも言われていたように覚えていますが)この作品は東洋人、否、日本人の歌舞伎町感をベースに、東洋人の中で閉じている存在感というか、閉鎖感というか、どこかそこに流れる裏の世界見たさ、それよりも紀香のような人にくすぐられて、そういう意味では村上龍氏からさらに内側に入ってきた感じがします。私にとっては何か林芙美子さんの「風琴と魚の町(1931)」の東京版のような、変なたとえですが。


時折見せる失踪感、映画の絵コンテを見るようなコマ撮り感、そんな感じからすると、この人物をこの俳優にして、という映画を考えたくなる作品になっていて、とにかく読まさせてくれ、私の文法がおぼつかなくてもいいから。

→紀伊國屋書店で購入