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『シネマ・シネマ・シネマ』梁 石日(ヤン・ソギル)(光文社)

シネマ・シネマ・シネマ

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「あれはいつだったか
 私の記憶が正しければ
 ロッキーの試写会で
 私の斜め前の座席で
 荻昌弘さんが泣いていた」

再び夜明け前にホテルを出て、ヘッドライトに照らし出されたセンターラインだけを頼りに空港へのハイウェイを走る。FMをClassic Rock Stationにすると何故かnickelbackのhow you remind meが流れて、どこがclassicかと思うと、 DJが密かに、それも低い声で「これからクラシックになるロックでした」と個人の思い入れがそのままの明け方のロックステーションが嬉しい。そして、東の空が遠くでオレンジ色になり始める頃は「ロストハイウェイ」か、月明りが残る海岸線なら「グランブルー」か、妙な気分になる。それでも、それだけでも、幸せだと思ってしまう。


自慢じゃないですけど、結構自慢ですけど、自宅に100インチのスクリーンをつけてから、かれこれ20年になります。

当時何十年かのローンで購入したマンションに、唯一プラス贅沢で買った物は39インチのTVでした。当時40インチ以上は急に値段が上がって、今となってみれば40インチなどはある意味当たり前になってきていますけど、当時は電気屋さんがマンションに運んで来たダンボールを見た時、ブラウン管の奥行きも含めて「何てデカイんだ」と店頭で見た時と自宅で見た時の大きさの違いに驚いた程でした。

それまで、そこそこ知人が飲んだり食べたりでウチの宿泊台帳に名前を連ねていったりでしたが、この39インチが入った時は「それで映画を見よう」という仲間が飲みに来たものでした。「3丁目の夕日」のプロレス観戦シーンそのものでした。

もう一つの贅沢品はレーザーディスクプレイヤーで、それもレーザーディスクをサイレントで再生させながらCDが聴けるという一種のスポーツバーをねらった自宅企画で毎晩のようにビールを飲んでしまいました。レーザーディスクの映画にしても、とにかく劇場公開版とディレクターズカット版の両方を買うもんですから、倍々に増えるわけで、でもディレクターズカットを観る楽しみというか密かな喜びと言うか、何とも「シネマ・シネマ・シネマ」の毎日で、そして時に映画の音を消して、映像はそのままで、好きなCDを聴くという、何と贅沢者なんだ・・・と。


それで子供が出来て、好きな映画館、ちなみにこれが「映画」ではなくて、この「映画館」というのが大切で、その「映画」そのものもですが、その給料の3ヶ月分のようなチープなCMのある「映画館」が好きなことが大切で、そこに行けなくなるという夫婦共通の言い訳で100インチスクリーンと、当時は馬鹿デカイ出始めの液晶プロジェクタを買ったのでした。当時の液晶プロジェクタはそこそこの値段がして、ようやく新中古を探したものです。今では弁当箱程度の大きさで十分の明るさがありますが、当時は全長50センチ以上の、何て言いますか、アメリカのそこそこの一戸建ての住宅街で道沿いの芝生に立つ新聞や郵便が来ると旗が立つ新聞受けと言ったら増々分からなくなりますが、そんなズンドーな全長50センチ以上の筒の先にレンズが付いていて「ボ〜」と冷却ファンの音の方がうるさいプロジェクタだったわけです。それでもウチら夫婦にしてみれば「ニューシネマパラダイス」の映写機がウチに来たような宝物になったわけです。

実際は価格的にはスクリーンの方が高くて、輝度を得るには、径が揃っている良質な細かいビーズで出来ているスクリーンが必要という結論にたどり着き、今でもあると思いますけど「キクチ」のスクリーンにたどり着いたというものです。とにかくホームシアターという発想がなかったというか出始めの頃だったので、何か100インチのスクリーンをウチの天井の梁に取り付けた時は、何か人知れず夫婦だけのシネマパラダイスになったわけです。


その倍々に増えるレーザーディスクは擦り切れる程、観ました。

レコードの時代と同じく、裏が聴こえるのではないかという位、観ました。

趣味は「気に入った映画を繰り返し観る事」というのは本当で、自分でも異常と思える程、気に入った映画を毎晩1回は観るという、ワインとバラの日々でした。特にロイシャイダーの「オールザットジャズ」は300回以上は観たと思います。


要は、監督がやりたいように作るディレクターズカットが一番良いのですが、それを公に公開する時にオーディエンスはどう反応するか、例えば見続ける時間配分は適当か、などを考慮エディットして劇場公開版になるのですが、例えば「ブレードランナー」は、劇場公開版ではオーディエンスに理解してもらう為にハリソンフォードの独り言のような台詞を重ねていますが、ディレクターズカットではそのような説明的な台詞はなく、解釈を全てオーディエンス委ねる叙情詩に仕上がっています。例えば「レオン」では、ディレクターズカットではレオンとマチルダの関係をより詳細に表現するシーンが入っていますが、劇場公開版ではそれらをカットし(大体カットする場合が多く)よりアクション的な部分を強調しているかのように見えますが、逆に説明的な部分がなくなってより「レオン」の良さが出ている感じです。「アラビアのロレンス」も同じような感じで劇場公開版の方がしまった感じがします。

劇場公開版とディレクターズカット、という関係以外にも、劇場公開版シネマスコープとビデオ/TV画面版という2種類の編集もあります。例えば「ターミネーター2」では、後半でシュワルツネッガーが液体窒素タンクローリーから飛び降りるシーンで、T2人形をつった糸が劇場公開版では見えてしまうのですが、ビデオ/TV画面版では、上手く画面の枠を変えているとかです。

より馴染みのあるこれらの作品でもこれだけ編集に伴う違いが見えるわけですから、ディレクターズカット系の多い岩波ホールクラスでは言わずもがな「シネマ・シネマ・シネマ」の世界という処です。ちなみにコッポラとルーカスがプロデュースした「コヤニスカッティ」の公開版では、あれは六本木WAVEでしたが、ゴッドフリーレジオ監督(名前も凄いですが)がロビーにいて、その劇場公開版とディレクターズカットの違いを直接聞いたりしました。そこにいたウチの奥さんは「こればかりはどこが良いのか分からない」と、確かに1回観ただけでは何だか、という正直な映画評を言っていました。

(つづく)



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