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『金正日の料理人』 『金正日の私生活』 藤本健二 (扶桑社)

金正日の料理人

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金正日の私生活

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 金正日の元料理人、藤本健二氏の手記である。一冊目の『金正日の料理人』は2003年6月に、二冊目の『金正日の私生活』は2004年7月に、どちらも扶桑社から出ている。

 藤本氏は寿司職人として北朝鮮にわたるが、はからずも将軍様に気にいられ、そば近く仕えるようになる。ある時期からは料理人を越えて遊び仲間になり、喜び組(正確には「喜ばせ組」だそうだが)のメンバーの一人と結婚するという特異な経験をしている。

 同時代の話話なのに、本書の読後感は『紫禁城の黄昏』、『王様と私』のような外国人宮廷滞在ものに近い。身分制度のやかましい前近代的な国家で、王様が身分制度の外側にいる外国人に心を許すという構図は、藤本氏の体験にもそのまま重なっている。藤本氏は水上バイクの競争で金正日を負かしたりしているが、北朝鮮高官にはそんなことは絶対に許されない。日本人の子分ができて一番よろこんだのは将軍様自身だったと思う。

 もっとも、将軍様の招待所は紫禁城ポタラ宮やボロマビマン宮殿とは似ても似つかない。紫禁城ポタラ宮やボロマビマン宮殿は文化の粋をあつめた優雅な宮廷だが、将軍様の招待所は成金趣味の豪華リゾートのようなものだし、宴会場で毎夜くりひろげられる乱痴気騒ぎはお世辞にも品がいいとはいえない。しかし、この乱痴気騒ぎにこそ、将軍様の権力の秘密がある。

 将軍様は一人で食事をすることはない。食事にはかならず高級幹部を20名から30名集め(週末には40~50人に増える)、日本から調達した高級食材で作った料理を大盤ぶるまいし、帰りには高級食材や家電製品、ブランド品を土産に持たせてやる。興が乗れば百ドル札の束をエサに、一本数十万円もするコニャックの飲み競争をさせる。幹部たちはドル札ほしさに酒をあおりつづける。もし、欲をかきすぎて泥酔してしまったら、それまで貰ったドル札は没収だから、幹部も大変である。

 なんの実績もない将軍様は、こうやって幹部を宴会で釣ることで、威光を維持しているのである。

 藤本氏は扶桑社から二冊の本を出しているが、内容は八割以上重なっている。主な違いは一冊目が時系列にそって書かれているのに対し、二冊目は「知られざる招待所の全貌」という副題の通り、景勝地に建てられた各招待所を紹介しながら、金正日とのエピソードを語るという形をとっている。

 どちらか一冊ということなら、最初の本をおすすめする。著者は北朝鮮にわたった経緯から報酬の額、日本に残した家族とまずくなり離婚したこと、食材の買付けのために日本に帰国した際に公安警察に逮捕されたこと、公安に保護されながら、各地を転々として刺客に怯えながら暮らしたこと、北朝鮮にもどってから公安のスパイと疑われたこと、そして罠にかかって軟禁生活を余儀なくされたことまで洗いざらい書いている。

 離婚の経緯はかなり怖い。著者は喜び組の歌手に一目惚れするが、将軍様はそれに気づくと、彼女にボクシングの試合をさせ、著者にそのレフリーをやらせて、同情が恋に変わるように仕向ける。そして、朝鮮総聯に日本に残した妻の素行調査をさせ、他の男性と懇ろになっているという事実を著者に知らせ、慰謝料を払ってやるからと離婚を勧める。著者を手元にずっとおいておくには北朝鮮で家庭を持たせるのが一番と考えたのだろうが、将軍様の計画通り著者は離婚し、喜び組の歌手と結婚することになる。

 二冊目は主なエピソードは重複しているが、ディティールがすこしづつ加筆されている。各招待所の地図は新しい情報だが、写真はすべて再掲載である。地下の軍事工場を見学したり、人間魚雷を見せられた話はこちらにしか書かれていない。

 二冊目でどうかと思うのは、文章が弛んで、いかにも脳天気な書き方になっていることである。一冊目はいつ殺されるかもわからないという不安感がにじみでていたが、二冊目になると、マスコミに名前が出てもう殺されることはないと安心したのか、北朝鮮での贅沢な暮らしを懐かしむ気持ち一色になっている。

 公安の事情聴取時、破格の報酬に引かれて北朝鮮にわたったと答えた著者に刑事は脱北者の手記を読ませたというが、著者が経験した景勝地をめぐって贅沢三昧を楽しむ生活は北朝鮮の千数百万の虐げられた人々の犠牲の上に成り立っていたのだ。脱北者が著者の本を読んだら、心おだやかではいられまい。

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