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『原っぱが消えた 遊ぶ子供たちの戦後史』堀切直人(晶文社)

原っぱが消えた 遊ぶ子供たちの戦後史

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「人間はただそこに勝手に生きているだけで自由だ」

 前々回に坪内祐三の『ストリートワイズ』を取り上げたとき、彼が「青空」や「原っぱ」といった比喩で語る「放課後戦後民主主義」というアイディア(それは「学校戦後民主主義」に対置される)を紹介したら、何人かの知人から共鳴的な反応を頂いた。その反応を読みながら、やっぱり窒息しそうな今の日本社会に生きる私たちにとっては、「原っぱの民主主義」のような自由な感覚が必要なんだよなあ、と改めて実感した。そして自分の個人的な原っぱ体験をあれこれ思い出した。小学校低学年のころの夏休みには、私も家の前の原っぱで毎日のように草野球をして近所の仲間と遊んだものだ(ボールは軟式かソフトボールを使っていたと思う)。ときどき女の子が参加すると、私たちはハンデをつけて彼女が打席に立つときには下手投げでスローボールを投げてやった。可哀相だからではない。そうやって不平等なルールにしないと力の差があってゲームとして面白くないからだ。そのときの「公平さ」の感覚は、小学校で他校に勝つために真剣にやっていた競技としてのソフトボールの「フェア」さ(学校戦後民主主義)とは違う、もう一つの公平さとして私の身体にずっと残り続けた。それが「原っぱ」から私が学んだ「放課後戦後民主主義」の感覚なのだと思う。


 そんなことを考えていたとき、『原っぱが消えた』という題名の本を新刊本の棚に見つけて私は驚いた(もっとも発売後、2,3週間経っていだが)。しかも著者は、前著『渥美清 浅草・話芸・寅さん』(晶文社)で、テレビに出る前の1950年代の浅草フランス座時代の渥美清が、芸人として生き残るためにいかに必死だったかを、芸人たちの回想録を組み合わせて見事に活写してみせた堀切直人氏だ。これは新刊本の苦手な私といえども、ぜひとも読んで紹介しなくてはならない。

 堀切氏は本書では、(前著と同様の方法だが)回想録を中心とした様々な文献を渉猟して、多様な世代の原っぱ体験をあれこれと引用しながら、近代都市の子供たちにとって「原っぱ」がいかに活力に溢れた貴重な遊び場であったかを具体的に描き出していく(事例が東京に偏っているのがいささか気になるが)。例えば、そのたくさんの引用のうちの一つ、奥成達の回想はこんな感じである。「土管や建築資材が積み上げられた原っぱは、どこかの工場の資材置場だったのだろう。鉄条網をかいくぐり、こどもたちは、そこで草野球をし、チャンバラごっこや忍者ごっこをし、戦争ごっこをした。冬になると凧あげである。/夏休みになると、原っぱは昆虫採集の宝庫であった。」(44頁、『昭和こども図鑑』からの引用)つまり「原っぱ」とはどんな空間だったかということに関する本書の主張は、いささか単純すぎるほど明快である。「子供たちは原っぱに足を踏み入れた途端に、自分たちの心を縛りつけていた拘束から解き放たれて、全身に活力があふれ、大地との一体感を味わいながら、夢中で遊び回った。原っぱは子供たちのアジール(避難所)であり、サンクチュアリ(聖地)であった。」(9頁)というわけだ。

 

 しかし問題はその先にある。こうした子供の解放感に溢れていたアジールとしての「原っぱ」は、1960年代から70年代にかけて開発業者によって囲いこまれ、整地され、そこにビルや住宅が建てられ、都市空間の中からあっという間に消失してしまった。「土地」がすっぽりと資本主義に取り込まれたのだ(やがてバブル経済の原因となる)。だが堀切は、原っぱの消失を、単に開発業者や資本主義のせいにして片付けてはいない。むしろ彼が問題にするのは、「原っぱ」を目の敵のようにして嫌ってきた生活者たちのクリーン志向とでも呼ぶべき感覚である。「都市の中から空き地がなくなったのは、ビルや住宅がそこを埋めたからではないだろう。私たちの中で、“空き地を空き地として感受する力”が失われたときに、空き地は初めて明け渡されたのだと思う」(85頁)。実際に70年代以降の都市住民は、原っぱや空き地に関する多様な苦情を行政に訴え続けた、「草に足をひっかけて転んだり足を切ったりする、犬や猫の糞が汚い、蜂や蚊などの虫や花粉による被害が多い、雑草が伸び過ぎると誘拐、痴漢、放火などの犯罪と結びつきやすい、空き缶やゴミが投棄される、不衛生で困る、気持ち悪い・・・・」(83頁)といった具合だ。

  

 私たち都市住民にとって「原っぱ」は、混沌として何がそこから生じるか分からないような不気味なものに感じられるようになったのだ。私たちは、それよりも人工的に管理された安全な空間を望んできた。その結果、いまや子供たちの遊び場も、雑草や斜面やぬかるみや藪やでこぼこのない、衛生的で安全に管理された「公園施設」(ブランコ、滑り台、砂場)へと作り変えられてしまった。公園では子供たちは「原っぱ」でのように大人の目の外で自由自在に遊ぶのではなく、大人の管理の視線の下に遊ばされているにすぎない(「学校戦後民主主義」だ)。

 ちょうどそこへ60年代後半からのテレビ文化の隆盛期がやってきた。屋外での遊びが子供たちの創意工夫から生まれる自由な活動だとすると、テレビ視聴はただ受動的にイメージを受容するだけの貧しい暇つぶしにすぎない。こうして本書の後半は、子供を受験勉強やらテレビやらといった屋内の不自由な空間に閉じ込める現代文明への批判へと傾斜していく。70年代以降の子供たちは、「原っぱ」という屋外の自由な遊び場を失ってまことに不幸である、というわけだ。しかしそう言われてしまうと、59年生まれの「テレビっ子」である私は(基本的な論旨には同意するが)多少の違和感も覚える。例えば、70年代後半に起きたピンクレディー現象とは、いったい何だったのだろうか。そこでは子供たちがただテレビを受動的に受けとめるだけではなく、テレビの中でピンクレディーが宇宙人やら野球選手やら人魚やらに自由自在に変身するのをテレビのこちら側でみんなで模倣することを通して、人間は想像的には何にでも生成変化しえるのだという可能性を身体的に感じ取っていたのではないか。つまり私は、テレビにはテレビの自由自在さがあったと思うのだ。逆に言えば、「原っぱ」における自主的な子供共同体は、たちまちにして大人社会をコピーした不自由な権力関係やしがらみを作り出していたはずだろう。その意味では、本書は「原っぱ」をあまりに実体としてのユートピアとして捉えすぎたかもしれない。

 それでも本書がとてつもなく魅力的に思えるのは、やはり「原っぱ」が、現代社会の閉塞感を超えるような、人間が作りうる自律的な空間の潜在的可能性として見えるからだろう。「原っぱ」は、目的や効率に取り囲まれた都市空間の中で、何の目的もない無駄な空間だった。土地も虫も植物も子供も、ただ勝手にそこに自生していることが許されていた。それこそが「原っぱの戦後民主主義」の感覚だろう。逆に言えば、「原っぱ」を認めない現代の私たちは、人間がただそこに勝手に生きているだけで自由だという感覚を失っている。子育て支援だの年金制度だのについて一生懸命に語っているうちに、人間は行政制度に助けてもらわなければ最初から生きていけないかのような錯覚に陥っている。むろん私は福祉制度を否定したいのではない。ただ、人間は何もしなくても自由だという「原っぱ」の感覚を失ってはいけないと思うだけである。本書はそれを思い出させてくれる。

(つけたし)

本書の腰巻には、「晶文社50周年」という文字が入っている。晶文社は、岩波書店のような学校民主主義とは違った、「原っぱ」のような人文知のありようを作ってきた出版社だ。だから本書は50周年を飾るにふさわしい本だと思う。


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