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『民主化のパラドックス-インドネシアにみるアジア政治の深層』本名純(岩波書店)

民主化のパラドックス-インドネシアにみるアジア政治の深層

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 著者、本名純の専門は、「インドネシア政治・東南アジア地域研究・比較政治学」である。欧米をモデルとした近代政治学ではない。著者は、終章「民主化パラドックス-アジア政治の深層をみる目」をつぎのことばで結んでいる。「グローバル政治経済の大きな力学に阻まれ、ひ弱な改革勢力が骨抜きになっていく事態はみたくない。そのためには、民主主義の現場で何が起きていて、権力と利権をめぐる政治がどう運営されているのかをローカルな立場から発信し、安易な民主化評価に警鐘を鳴らすことが大事である。それがグローバル化時代に生きる地域研究者の存在意義のような気もする」。「本書を通じて、その思いが読者の皆さんに伝わることを祈りつつ、この終章を締めくくりたい」。


 本書の目的は、「民主化が孕むパラドックスの実態を描く」ことである。その例として、インドネシアを取り上げる。著者は、「スハルト体制崩壊から一五年が過ぎ、「民主主義の一五年」を振り返る催しが盛んな今、民主化に潜むウィルスの進行を冷静かつ正確に観察することは、地域研究にとって重要な仕事ではないだろうか」と問いかける。


 著者は、その目的を達成するために、「六つの政治局面を観察」し、それぞれ1章をあてて論じている。まず、第1章「デモクラシーのグローバル化スハルト体制の崩壊」では、「スハルト後」の理解に決定的に重要な意味をもっている「スハルト体制の「終わり方」について、「民主化運動はいかに発生したのか。そして政治エリートたちは、どのような思惑でスハルト退陣劇を演出したのか」を議論する。


 第2章「ポスト・スハルト時代の政治改革」では、「「スハルト後」の民主改革の発展をみる。改革の軸は大きく二つあり、一つは市民の政治的自由の拡大、もう一つは国家の権威主義体質からの脱却である。どのような改革が、どのような目的で実施され、それによって政治はいかに変化したか」を議論する。


 第3章「民主化移行期の混迷する権力闘争」では、「レフォルマシ[改革]が最も盛んに叫ばれた時期、すなわちスハルト退陣からハビビ政権、ワヒド政権、そしてメガワティ政権における政治エリートの権力闘争を考察する」。


 第4章「民主化定着期の劇場政治-ユドヨノ政権の権力闘争」では、「二〇〇四年からの「民主化定着期」を考察する。同年の議会選挙と大統領選挙は、大きな混乱もなく行われ」、ユドヨノ政権が誕生した。「民主的な選挙が定着し、有権者の意志が直接的に政治に大きな影響力を持つ時代になり、「人気者」を担ぎ上げる政治ゲームが盛んになっていく。「人気者」はどう創られるのか。この劇場政治の舵を取る政治エリートたちの権力闘争に迫る」。


 第5章「分離独立運動・テロ・住民紛争-治安維持の政治」では、「治安に焦点を当てる。民主化は時に暴力を生み治安が不安定になる。これをどう抑えるか。これが治安の統治である。民主化で国家の治安の統治メカニズムはどう変わったのか。その問いに多角的に迫るために、分離独立運動テロリズム、住民紛争という三つの性格の異なる治安問題を考察する」。


 第6章「民主化アンダーグラウンドの力学」では、「「裏社会」の変化にスポットライトを当てる」。「政治の民主化によって、裏社会はどう変容しているのか。どのようなアウトローたちが衰退し、どのような新興勢力が台頭しているのか。利権のパイが一番大きい首都ジャカルタにおける裏社会の秩序再編と、そのインパクトを分析する」。


 そして、終章では、「これまでの考察を踏まえて、民主化パラドックスとは何を指すのかを定めた上で、その力学が他国でも存在しうることを論じる。また今の国際環境が、それを助長している実態を明らかにする。今、アジアを含めた世界各地で進行しつつある「民主化ドミノ」と、その促進を意図した国際的な民主化支援に関する課題も浮き彫りになろう。パラドックスのジレンマを乗り越えることはできるのか」を考える。


 その終章で、著者は、つぎのように問うている。「一方で国際社会のリーダーたちや、経済をみている多くの人たちからは、インドネシア民主化の定着と安定が高く評価され、他方で批判的な人たちからは汚職や暴力や権力乱用が問題視される。結局、民主化は成功なのか、それとも問題なのか。その答えはどこにあるのか」。


 その問いにたいして、著者は、つぎのように答えている。「本書を通じてみえてくるのは、「両方とも正しい」という答えである。言ってみれば、問題が温存されているから安定しているのである。つまり、旧体制からの既得権益が持つ政治エリートたちが、それなりに今の民主主義の政治ゲームを謳歌できているからこそ、それを壊そうという動機を持ちにくく、その結果、今のシステム(すなわち民主主義)が持続して安定しているのである。国軍であれ警察であれ、国会議員であれ地方首長であれ、汚職官僚であれ実業家であれ、皆がそれぞれ、ある程度の権力と利権の分配に組み込まれている今の状況は、システム全体をひっくり返そうという政治勢力を生み出さない。だから安定しているのである」。「旧体制下で影響力を持っていた「非民主的」な勢力の権力と特権を温存できているからこそ、「民主主義」が定着して安定する。これがインドネシアにみる民主化パラドックスである」。


 けっして健全ではないこのような「民主主義」を批判することは、難しいことではない。しかし、その「民主主義」をたんに否定するのではなく、健全な方向に向かうよう「ローカルな立場から発信し、安易な民主化評価に警鐘を鳴らすこと」が地域研究者としての役割だろう。著者は、外国人地域研究者としての「礼儀」を、つぎのように述べている。「忘れるべきでないのは、今の質の悪い民主主義の実践を変えていこうと日々頑張っている人たちが、政府のなかにも政党のなかにも市民社会のなかにもいるという事実である。そういう勢力の努力をサポートすれども邪魔はしないということが、外国人である私たちにとって重要なのではないだろうか。問題まみれの政治の実態を、「民主主義の運営が安定している、定着している」と高く評価し、国際投資のチャンスだと宣伝するグローバル経済のアクターたちや、中東での外交政策の失敗をカモフラージュするかのごとく、アジアの民主主義を賛美する欧米の政策決定者たちに無批判でいることは、質の悪い民主主義を謳歌している権力エリートたちを喜ばすことはあっても改革勢力の助けにはならないし、むしろ妨害にさえなりかねない」。


 近代政治学で理解できないことを、アジア政治の未熟さや腐敗などのせいにするのではなく、アジアをモデルとする現代政治学があってもいい。本書でも、書けないこと、書けても理解してもらえないことが多々あることを背景として読まなければならないだろう。とくに東南アジアは、流動性があり、地域差が大きいために、1国単位で語る場合にも統一性を欠く議論になることがある。本書で議論されたことが、ほかのアジア、とくに東南アジアの国ぐにでどれだけ適応できるのか、それぞれの国・地域の文脈で考える必要があるだろう。本書を手がかりとして、アジアにとってふさわしい「民主主義」とはなにか、過渡期としてなにが許されなにが許されないのか、考えるきっかけになりそうだ。

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