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『手紙が語る戦争』女性の日記から学ぶ会・編 島利栄子・観衆(みずのわ出版)

手紙が語る戦争

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 オトウサンオゲンキデイラッシャイマスカ。私モゲンキデマイニチガッコウヘカヨッテイマス。オトウサン私ハオトウサンガハヤクコナイカとオモッテイマス。オトウサンガクレバ私ハオモシロイノデスモノ。オトウサンハヤクメンカイニキテクダサイネ。オトウサンガメンカイニキテクレル日ヲマッテマスヨ。デハサヨウナラ。オトウサン。

 昭和二十年、疎開先から東京の父へ宛てた八歳の娘の手紙。

 前橋の伸子さん、お便りありがとう御座いました。二月二十五日に着きました。伸子さんにはお元気でお勉強なされていらるる事と、はるか中支の戦場よりお察しいたします。また伸子さんの組は、学校でも一番戦地からのお便りがあるそうですね。皆さんの姿が目に映ります。今日は二月二十六日です。中支はとても良いお天気です。もうナの花やタンポポが咲いています。麦畑も青々しています。日中は暖かいです。小春日和みたいです。でも夜になると、又寒くなります。

 昭和十五年、戦地の兵士が小学六年生の少女へ書いた手紙。少女は小学校、女学校を通じて、見ず知らずの兵士にたくさんの慰問文を書き送っている。

 あるいは昭和二十年、戦地の兵士が家族に宛てた葉書。およそ十三センチ×九センチ四方の紙の上に、一ミリ大の文字千二百字がひしめく。

 過日は懐かしの御音信有り難く拝見致しました。御家内御一統様には益々御壮健の由何よりであります。御陰様を持ちまして自己も益々元気いっぱい軍務に服しています故、何卒他事乍ら御休心下され度。さて故郷も決戦下年末に於いて実に御多忙な御事と存じます。それに寒さも大変厳しき御事と存じ、子供達も大変でありましょう。

 挨拶と、戦地での自らの近況の報告のあとには、家族ひとりひとりへの呼びかけが続く。たとえば小さな妹にはこんなふうに。

 ……京ちゃんよ、今夜は仲よくして兄ちゃんと話そうか。それと、いや、あれどうして。いやは……顔が見えないからさ。そうか、それもそうか。いや京ちゃん。いや京ちゃんには負けたね。ね、兄ちゃんのお願いだよ。父さんと仲よくね。

 この葉書から半年後、書き手の兵士はフィリピン北部で戦死した。

 本書に収録された書簡はすべて、「女性の日記から学ぶ会」の創立十二周年を記念して開催された展覧会で展示されたものである。

 戦地の父から息子へ、妻から戦地の夫へ、疎開先から両親へ、軍需工場でひそかに交わされた恋文、遺書となった家族への手紙や葉書。それらが、提供者や会の会員によって読み解かれ、紹介されている。

 「女性の日記から学ぶ会」は平成八年創設。聞き書き家の島利栄子氏が中心となり、「現存する日記等の情報を集め、保存し、活用しながら次代に伝えるべき女性文化の有り様を探りたい」と、日記や家計簿、手紙などを収集し、読み解きや研究発表、会報の発行、展覧会やイベントの開催等の活動を行っている。

 きっかけは、島氏が聞き書き家として取材をするなかで、お年寄りから日記・家計簿・手紙の処分についての相談を受けるようになったことだった。自らも、小学校のころから日記をつけつづけている島氏は、その史料性を痛感し、日記その他の提供を募ることから会がスタートした。

 感激屋の私は、人の話をすぐ信じ、裏も取らずに書くために大きな失敗を幾つもしてきました。人は過去を自分に都合よいように美化しがちだし、またその後に見聞きしたことを自分の体験のように勘違いすることもあります。思い出、記憶とは意外と脆弱なものなのですね。もしその時に実際書いた日記や手紙などが出てくれば、それ以上の証拠はないので、その証言は信頼の高いものになるわけです。

 島氏が女性の日記から学ぼうとしているのは歴史だが、女性の書こうとする欲求、書く力を追ってゆきたい私は、書かれたものが、書かれた時点で孕む事実とはべつのなにかへと興味がはしる。戦争という非常時下だからこそ、という特殊性よりは、そのようななかでも変わることのない人の表現とは何なのだろうか。

 本書に取り上げられている「松崎宗子日記」は、「女性の日記から学ぶ会」創立当初に提供されたもので、島氏の著書『日記拝見!』(博文館新社、平成十四)にも紹介されている。

 長野の農家の主婦松崎宗子さん(大正五~平成十三)は、昭和十八年から亡くなるまで日記をつけつづけた。本書ではその初期のものと、戦時中に戦地の夫に送りつづけた葉書の一部が紹介されている(紹介者は「女性の日記から学ぶ会」会員の片岡良美氏)。

 拝啓。貴方には相変わらず御元気でせうか。私達も元気です。蚕は只今四眠五眠目にはいりました。もうわずかです。満州も毎日暑いことでせうね。お庭のあんずも赤く成り稚枝ちゃんが大喜びです。では又御便りいたします。何卒御身御大切にね。サヨーナラ。

 昭和十七年に召集された夫への葉書はあわせて三百九通にのぼる。そのほとんどが昭和十八年と十九年に書かれたものであるのは、戦況の悪化のともない音信がとだえたためで、送ったはずの葉書がまとめて返送されることもあった。彼女の日記は簡単なメモ程度のものだが、この当時、夫へ葉書を出したこと、またその返事のあったことが記述の大半を占めており、葉書のやりとりの出来なくなってからは、戦地の夫をひたすら案じている。

 戦地の夫へ葉書を書くこと、さらに、そのやりとりを日記に記録するという二重の「書くこと」。それによって、彼女は、夫への愛情と夫不在の銃後の生活の重みに押し潰されることなく堪えた。その表現のかたちは、史実よりもいっそう、戦争という非常時のいかなるものかを、わたしたちに語りかけてくる。

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