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プロの読み手による書評ブログ

『「アンアン」1970』赤木洋一(平凡社新書)

「アンアン」1970

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「負け組としての『アンアン』」

 『アンアン』と言っても、私には今まで反感を持ったという記憶しかない。70年代に『アンアン』(平凡出版)と『ノンノ』(集英社)という大判の女性グラビア雑誌を手にした若い女性たちが、その雑誌のモデルたちと同じ洋服を着こみ、その雑誌に紹介された通りに鎌倉や京都に旅行し、そして記事で紹介された店で買い物や食事をするという何とも主体性のない姿を、当時の人びとが「アンノン族」と揶揄したのを聞いてしまったからだと思う。ロマンチックなイメージで現実に覆いを被せて消費しようとする女性たちの姿といい、メディアが紹介した店に観光客が押し寄せるメディア消費社会のメカニズムといい、その後現在まで続くこの社会の風景を作り出した起源として、1970年の『アンアン』の創刊は確かに事件だった。

 だから私は『平凡パンチ』と『アンアン』の両方の創刊に編集社員として関わったという著者・赤木洋一が、60年代の平凡社の雑誌作りをめぐる挿話を回顧的に描いた連作である、『平凡パンチ1964』(平凡社新書、2004年)と本書『「アンアン」1970』(平凡社新書、2007年)をまとめて手に取ったときも、どこか嫌々ながらという警戒心があった。表紙カバーのそで部分に「パリのエスプリ漂う新しい女性誌作りに、天才AD堀内誠一をはじめとする気鋭のクリエイターたちが大奮闘!」とか「女性誌のあり方を変えた『アンアン』誕生の現場が甦る!」といった宣伝惹句が書いてあるのを見て、ますます嫌な感じがしてしまった。こっちは、この書評ブログでここ数回、70年代の関西的手作り文化の本を何冊か紹介して、『アンアン』が同時代に作り出したようなイメージ消費文化を批判してきたつもりだったのだ。だから「敵情視察」といったような構えた気分で私はこの2冊を手にするしかなかった。

 ところが読んでびっくり。そこには予想とはまったく違う光景が広がっていて、私の警戒心はみるみる解けていった。赤木洋一と言うこの著者の人間観察力とエピソードの描写力が実にしっかりしていて、ぐいぐいと引っ張られるように面白く読めてしまう。何より回顧談というのに自慢話をしないのがいい。確かに成功者たちの若かりし姿が描かれているのだが、決して後からそう見えるような成功者として彼らを神話化して描くことがない。まだ成功するかどうかわからない不安と混沌に満ちた創刊時の状況を、自分にとって恥ずかしい軋轢や失敗までをも含めて冷静に描き出していく。いや実際に70年に創刊してから、評判はいいのに全然売れずに赤字に苦しんでいた最初の2年間のことだけが書かれ、73年以降会社を支える雑誌に大化けしていく成功した『アンアン』のことにはほとんど触れようとはしないのだから、著者の姿勢は潔いほどだ。だからこれは、いわば負け組としての『アンアン』の物語である。

 例えば創刊の噂を聞きつけた『装苑』(文化出版)の編集者に、「ファッション誌を出すんですって? おたくに型紙の校正ができる編集者がいるの?」と言われたというエピソード(41頁)。その頃の洋服は、洋装店で仕立てるか、ミシンを使って自分で縫うものだった。当然ファッション雑誌には、読者が自分たちの服を作るための型紙が必須だった。むしろデパートなどで陳列されている既製服は、「実用」とか「野暮」というイメージしかなく、「ブラ下がり」と呼ばれて侮蔑されていた。著者もパリの取材では自分ひとりのためにモデルが入れ替わり出てくるオートクチュールを経験する。そちらこそがファッション文化の王道だった。つまり『アンアン』が提起しようとしていた若い女性向けの既製服文化は、まだ社会のなかに占めるべき位置を持っていなかったのだ。だからこそ最初は、読者がついてこられなくて売れなかった(実際、まだ雑誌に掲載しても売られる服の数が少なかった)。

 むろん、だからこそ『アンアン』は先駆者だったのだ、と後からは見える。そしてその成功に反感を持って人びとは「アンノン族」などといった揶揄の言葉を投げかけた。しかしそのような『アンアン』の一般的イメージこそ、まさに私が敵視しようとするメディア化された空虚なイメージにほかなるまい。しかし逆説的なことに、そうした空虚なイメージ文化の勝者『アンアン』を描いた本書は、私のそうした神話的イメージを解体するような具体性の力を持っている。

 そういう力を本書に与えているのは、(先述したが)赤木洋一のしっかりした人物観察力だと思う。例えば、堀内誠一に連れられて、パリから連れてきた専属モデル・ベロとスタイリスト・原由美子原敬の孫)の四人で鎌倉の澁澤龍彦邸を突然訪ねたときの描写を見てみよう(155-6頁)。

 ・・・澁澤さんは気さくな、と言うか人柄の良さが顔に出ているようなヒトだった。著書などから想像していた気難しい学者タイプ、というぼくの予想はまったく外れたというわけだ。/堀内さん以外の三人とは初めて会ったのに、形式的な挨拶は何もない。かといって三人が無視されているわけでもない。何と言ったらいいのか、最初からウチワのヒト、とでもいうような扱いなのだ。(中略)/酒が出てしばらく飲んでいるうちに、澁澤さんが遠来のパリジェンヌを歓迎すると言いだし、立ち上がってオペレッタを歌い始めた。楽しそうに、軽妙に。

 思わずどこまでも引用を続けたくなってしまう。そのときその場でしか味わえない、独特の雰囲気が見事に描写されているからだ。このようなかけがえのない場の空気や時間こそが、『アンアン』によって流通していく、鎌倉だのルイヴィトンだのパリだのをめぐる「メディア・イメージ」によって失われてしまった、もう一つの文化だと言えるだろう。そうしたもう一つの文化を味わう力を、本書は教えてくれる。もう1冊の『平凡パンチ1964』でも、岩堀喜之助、石原裕次郎伊丹十三などの飛び切りの挿話が楽しめる。両者を併せて読まれることを薦めたい。

 

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