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『世界の歴史A』(山川出版社)<br>『世界史B』(三省堂)<br>新課程用 高等学校世界史教科書(2004年3月)A11冊、B11冊

新課程用の高等学校世界史教科書が昨年出揃い、専門とする東南アジア史の記述を中心にみた。カラー印刷で視覚に訴えかけ、近年の研究成果も取り入れて、地域的にもテーマ的にも幅広い記述になっていた。
近現代史重視の世界史Aでは、16世紀までを地域世界ごとに一気に語り、テーマごとの特集やコラムが設けられて、従来の通史的理解とは違う構成がとられている。大学入試で重視される世界史Bでも、センター試験のリード文のような海や食べ物、飲み物といったテーマ学習のページあり、通史的な記述では理解しにくい社会史・文化史がとりあげられている。
なかには、『新編 高等世界史B 新訂版』(帝国書院)のように、最新の研究成果をふんだんにとりいれて、新たな世界史観を提示しようとしている意欲的なものもある。
世界史のなかに日本史の記述も増え(日本史のなかに世界史的記述も増えて、内容の差が縮小)、最後には環境や貧富の格差、地域紛争の問題など、今日・未来の問題を歴史的にどう考えていくかを問いかけている。
全体として気にかかるのは、視覚的効果はいいが、文字情報から考える力が低下するのではないかということだ。また、新しい研究成果が取り入れられているのはいいが、部分的で古い価値観と混同して記述されているために、かえって世界史の全体像がわかりにくくなっっているものが散見されることだ。

 東南アジア史の記述も、いちだんと増えてうれしくもなった。
しかし、これでは現場の教師は、さぞかし苦労するだろうと思った。増えた東南アジア史の記述は、執筆者に東南アジア史を専門とする者が少ないせいか、問題となる記述も少なくなかった。
なにより、東南アジア史になじみの薄い教える側に疑問・不安があるなかで、東南アジア史を理解することの意味が生徒に伝わらないのではないかと感じた。それは、東南アジア史の歴史事実・解釈の問題だけでなく、これからの世界史・グローバル史を考えるためのもっと奥深い問題が、東南アジア史の学習にあるからである。

 すでに西欧中心史観の見直しが唱えられて久しく、また近年グローバル化時代にふさわしいグローバル史の必要性が唱えられているにもかかわらず、依然として20世紀に支配的であった温帯の陸域、定着農耕民社会の成人男子エリート中心の、中央集権的な歴史像にかわる新たな歴史像が登場しているとは言えない状況にある。
東南アジア史をはじめ、従来の歴史叙述で充分に語られることのなかった地域や時代、人びとは、文献史料に乏しく、近代文献史学では記述することが困難であった。これらの分野の研究は遅れているどころか、まったく手つかずのものもすくなくない。
加えて、発展途上国の歴史研究は経済発展が優先されるなかで軽視され、研究者自体の数がすくなく、優秀な人材を得られない状況にある。
なかには、自国の歴史も世界の歴史も、学校教育で満足に教えていない国さえある。また、歴史教育ナショナリズムの高揚のために利用され、学問とは違うレベルで語られることもすくなくない。
偏狭なナショナル・ヒストリーが、世界史の理解やグローバル史の形成の弊害にもなっている。最悪なのは、内戦や治安状態のよくない国や地域があり、現地で文書を読むこともできなければ、現地にはいることさえできないことがある。

 このままの状況でグローバル史を語ることは、西欧中心史観を助長することになり、欧米を中心とした「知の帝国史」にもなりかねない危険性を孕んでいる。
いま、わたしたちは近代文献史学で充分に語ることのできなかった分野の研究をすすめる必要があり、そのひとつが、流動性の激しい海洋民が活躍する熱帯の海域を含み、女性・子どもの役割が比較的重視されてきた東南アジアの歴史である。東南アジアの歴史を理解することは、これからの世界史をみる恰好の事例を提供し、日本史や中国史西洋史などの見直しにもつながる可能性に満ちている。

 さらに、東南アジア史の理解は、近代歴史学そのものを再考する可能性を秘めている。
近代をリードした西欧を中心に発達した、物事を単純化した合理的な考えや中央集権的な組織の形成は、近代国民国家の発展に大いに役立った。
しかし、グローバル化と多元文化を尊重する現代において、国家という枠組みを中心とした歴史や単純な進化論的な考え、権力をともなう文化・文明の重視といった近代の価値観は、通用しないどころか人びとの交流の妨げになり、戦争・紛争の原因にもなりかねない要素を含んでいる。
人生の大半あるいはすべてを21世紀に生きる生徒に必要な歴史が、近代の主役ではなかった東南アジアの歴史の理解から見えてくるのである。

 新課程用教科書でも、文献史料に基づく歴史記述だけでなく、絵画などの美術や建築、生態系の理解などにページが割かれているのも、20世紀に発展した文献史学だけでは、充分に歴史を語れなくなってきたからである。
しかし、ここで誤解してもらっては困るのは、文献史学の重要性はけっして低下したわけではないということである。
たしかに、文献以外の歴史資料を利用することによって、新たな歴史像が提出されるようになってきた。いっぽうで、これらの非文字史料を読み解くために、文献史料が大いに役立っていることも事実である。これからの歴史学は、文献史料と非文字史料の両輪がうまく回転していくことによって発展していくことだろう。
ただ、いまは東南アジア史研究のように、その相互連関がうまくいっていない部分があることもたしかだ。

 なお、この書評の記述から、教科書記述や執筆者への不信感を抱いた読者がいるかもしれない。
教科書は、長い年月の審議を経て作成され、東南アジア史のように近年急速に発達した分野には対応できない、という構造的な問題が存在する。また、東南アジア史は、国・地域によって基本的な研究言語が違い、複雑な文化・社会構成から、少し地域や時代が異なると、東南アジア史を専門としていると自負している研究者でさえ、充分に理解していないことが多々ある。
ましてや、東南アジアを専門としない教科書執筆者は、『世界各国史 東南アジア史』(山川出版社、1999年、2巻)、『岩波講座 東南アジア史』(岩波書店、2001-03年、9巻+別巻)や『世界史小辞典 改訂新版』(山川出版社、2004年)などに頼らざるをえないだろう。
しかし、上記のように複雑多岐にわたる東南アジア史の研究情況、日本における東南アジア史研究者の桁違いのすくなさ、さらには時代の転換点にあって、これらの基本的文献が充分にこれからの高等学校世界史教育の要請に応えていると言えないのが現実である。単純化し、わかりやすくしたかつての記述が通用した時代とは違い、東南アジア史だけでなく、はっきりしたことが言いにくくなっているということもある。複雑なものは複雑なものとして、わかりにくいものはわかりにくいものとして理解していくことが重要になっている。東南アジア史の教育現場の問題は、従来見過ごされてきた基本的問題を考えるきっかけになり、これからのほかの歴史、科目にも応用のきくものを提供してくれるだろう。

 歴史教育の未来のためには、いま、どの国・地域、どの時代の研究が必要か、大局的に考える必要があるだろう。また、従来、高等学校で充分に取りあげられなかったことから、東南アジア史研究者がまともに教科書記述について考えなかったことも事実である。反省を込めて、これからの東南アジア史研究・教育を考えていきたい。

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