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『インドネシア−イスラーム主義のゆくえ』(平凡社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 オーストラリア政府は、今年になってからも新たなテロ攻撃の可能性があるとして、インドネシアへの渡航を避けるように国民に警告をしている。2002年10月12日、バリ島で大規模な爆弾テロ事件が起き、オーストラリア人88人を含む202人の死者が出た。この事件は、世界でもっともイスラーム教徒人口が多く、比較的「穏健」だと考えられていたインドネシアで起こっただけに、その衝撃も大きかった。とくに、人口が十数倍で仮想敵国のひとつである隣国で多数の犠牲者が出ただけに、オーストラリアでは動揺が広がった。

 著者、見市建は、「「10・12」後の地点からインドネシアにおけるイスラームを見直してみたい」ということから出発して、国家とイスラームの関係をインドネシアという国家を基本単位として考察している。「具体的には、(一)国民と国家の統一と統合の論理の中におけるイスラームの位置づけ(イデオロギーと規範)、(二)政府とイスラーム諸運動の関係(政治的実践)、(三)警察・軍や裁判所などの国家機構の機能とイスラームの関係(秩序と正義)、という三つの問題群を」含んでいる。

 著者は、「本書で最も主張したかったことは、イスラームないしはムスリムを動態的に把握する必要があるということである」とし、「独立後のインドネシア政治におけるイスラームをめぐる最大の変化は国民統合とイスラームとの関係であ」り、「イスラームは国民統合と対立し、脅威を与えるという考え方は後退し、「国民の一体性」と「イスラーム市民社会」さらには「ウンマの一体性」が両立するものとして主張されるようになった」と結論している。本書でも、「左/右」や「イスラーム主義/ナショナリズム」という二項対立でとらえる近代の考え方の無意味さを明らかにしている。

 本書で注目されるのは、「フーコーの構造的分析とグラムシの闘争理論をベースにした文化的闘争の運動理論であるカルチュラル・スタディーズも読まれ、大衆文化擁護の理論的根拠になっている」という記述である。文化の重要性について唱えられて久しいが、本書で述べられているように「イスラームの土着化」に実践的に使われていることが明らかになると、新たな時代が到来したことを感じざるをえない。

 映画、テレビドラマ、アニメ、歌謡などが、国家プロジェクトとして重視されるようになった。その成功のひとつが「韓流」である。戦争になったとき、人びとが人気俳優の顔を思い浮かべ、戦争に反対するなら、文化政策もその役割を大いに果たすことになる。いっぽう、その文化にこだわりすぎて、戦争の原因になるなら考えものだ。多文化共生社会を、どう築いていくか、国際的にも国内的にもこれからの大きな課題だ。

 インドネシアでは、国家という枠組みの基本のうえに、さまざまな地域の特殊性を考えていかなければならない。それが、著者に「あとがき」で「私はこの本を書くにあたり、むしろ過去のインドネシアの歴史やインドネシアの地方政治の論理に引き戻された」と書かせたのであろう。本書のなかで繰り返し語られる「地域の論理」は、「海域イスラーム社会の歴史」を考察してきたわたしにとっても、なじみのあるものである。問題は、歴史的にそれを充分実証できていないことである。著者が、「多様性のなかの統一」ということばにしばられて、あの広いインドネシアを実際に見て歩き実感しようとしているのにたいして、その成果を裏付けるだけの歴史研究は充分とは言えない。これまでの歴史研究は、ジャワ島を中心としたものが多く、そのほかの島じまの研究は、まったく手つかずのものも少なくない。著者のように現代の事象を主題に研究を進めている若手が、歴史の重要性に気づいても、それに応えるだけの歴史研究者が少ないのが現実である。

 学際的研究とか学融合的研究と言うのはたやすいが、それを生産性あるものにしていくためには、歴史研究のような基礎研究と著者のような行動力のある若手が実際に体感しながら社会を把握していく研究とのバランスのとれた専門性が必要だ。

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