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『インドネシアを齧る-知識の幅をひろげる試み』加納啓良(めこん)

インドネシアを齧る-知識の幅をひろげる試み →紀伊國屋書店で購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 わたしの研究室の机の横の書棚には、事典・辞典類が置いてある。椅子に座ったままか立てば、事典・辞典類が取り出せるようにである。歩いて書棚から取り出したり、わざわざ図書館に行って調べなければならないと、結局は調べずじまいで、そのうち忘れてしまう。本書の副題「知識の幅をひろげる試み」のためには、疑問に思ったらいつでも調べることができるように、まずかたちから入る必要がある。

 本書を読むと、著者、加納啓良の研究室や書斎が見たくなった。このどん欲な知識欲を支えている源はなになのか、覗いてみたくなった。とにかく、著者は、事典・辞典類をよくひいている。そのひき方も、半端ではない。いちばんよくひいているのは言語辞典のようだが、各種事典・統計書などをいつも小脇に抱えているような様子が浮かんでくる。しかも、情報を得ると、それをまとめて分析してしまう。
 このような習癖は、著者が専門とする経済学から得たものだろう。それを、「知識の幅をひろげる」ために、おおいに活用している。奥付の略歴には、「インドネシアを中心に東南アジアの経済・社会・歴史を研究」とあるが、本書でもインドネシアを相対化するために、ほかの東南アジア諸国の例が頻繁に出てくる。経済学だけが専門ではなく、社会や歴史にも造詣が深いこともすぐにわかる。そして、その社会や歴史の知識が、専門の経済学にいかされていることは、本書唯一の「学者らしい論考」である最後の「第35話 貿易統計から見た日本・インドネシア関係」からわかる。社会学歴史学を専門にしていようが、あるいは言語学などのほかの分野を専門にしていようが、本書を楽しんで読むことのできるのは、著者の探求心と事実確認の手法が、ほかの学者の共感を得るからだろう。かつて、同じく東南アジア経済学を専門とする末廣昭『タイ―開発と民主主義』(岩波新書、1993年)を読んだとき、政治・経済の本でありながら、歴史の本としても楽しめた。それは、著者が自分の専門性をいかすための基本として、歴史的、社会的知識を充分にもちあわせており、周辺国・地域との比較も充分におこなっていたからだろう。本書も、インドネシアを例にしながら、もっと広がりと奥行きのある内容だった。

 東南アジアのような流動性が激しく、制度化が必ずしも有効ではない社会では、事典・辞典類、統計資料は制度化の発達した定着農耕民社会のもののように正確ではない。したがって、著者は自分自身でもっと信頼のおけるものをつくろうとしている。そして、近代科学の理論が必ずしも役に立つわけではないことを、著者は知っている。にもかかわらず、著者は、近代科学を基本にインドネシアを理解しようとしている。ひとつの分析視座から理解できないインドネシアを、合わせ技で、あるいはほかの国・地域からの比較で把握しようとしている。理屈ではなく、肌で感じることも忘れてはいない。近代をリードした国ぐにの理論ではけっして理解できないインドネシアの研究には、「雑学」が必要なことを本書は教えてくれる。

 本書を読んで考えさせられたのは、学際・学融合的分野である地域研究を専門とする「新しい」研究者に、本書のような「齧る」ものが書けるだろうか、ということだ。著者は、この「齧る」の意味を、「いろいろな角度から眺めて、多様な味わいをそのままに表現してみようと思ったにすぎない」としている。しかし、それは著者の謙遜であって、この「齧る」をできる者は、そういないだろう。著者の経済学という専門性があって、それを基盤に「齧る」ことができたと、わたしには思えた。本書を超えるようなものが地域研究者から出たとき、新たな「齧る」切り口がみえてくるだろう。

 最後に、「外島」ということばが出てきたとき、すこし首を傾げたことを申し添えておく。これまでも「インドネシア」が語られるとき、実際は「ジャワ」のことしか語られないことがままあった。著者は、けっしてジャワだけのことを語っているわけではない。それどころか、広大なる国土・多様な民族を、いかに「インドネシア」というタイトルの下に語るかに苦心している。にもかかわらず、オランダ植民地時代に使われたジャワ以外の島じまをあらわす「外島」ということばが出てくると、「ジャワ中心史観」かと思ってしまう。いまのインドネシアに、まだ「外島」ということばが通用するのか、そのあたりも知りたかった。

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