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『表象としての身体』鷲田清一、野村雅一編(大修館書店)

表象としての身体

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「目配りのよい身体論の論文集」

本書は「身体と文化」という叢書の一冊として慣行された論文集であり、叢書の残りの二冊は「技術としての身体」と「コミュニケーションとしての身体」というタイトルになっている。心理学、美術、生物学、文化人類学などのさまざまな学際的な分野から、表象としての身体をテーマにした文章が集められている。

実はこの叢書は一九九〇年代の初めに企画されたものらしい。その当時からみると実に斬新だっただろうと思う。身体論はぼくの好きなテーマでもあるので、編纂者になったつもりで、どんな文章を集めることができるだろうといろいろと思い描いてみた。するとやはりこうした内容の企画になっただろうと思う。あえて追加するとすれば宗教の分野における身体論をいれただろうと思う。

二〇〇五年に刊行された時点でみると、もはや古典的なアプローチにみえる文章もあり、ある程度の既視感は拭えないが(いくつもの文章で、一〇数年前に書かれた文章がこの時点で発表されることについての困惑や弁明の言葉が後書きとして付されている)、一五年前の企画としてはしっかりと目がゆきとどいていると思う。あと一〇年前に出版されていさえすれば……。

中でも興味を引かれたのが人間の疑似身体についての考察だった。身体のシミュレーションは自動人形の段階から、鉄腕アトムのような量産される疑似身体(ロボット)の段階へと進んだのだが、自動人形も量産される疑似身体も、どちらも人間の身体のシミュラークルとして、ぼくたちに不思議な思いをさせることがある。

松浦寿夫の「絶対的な匿名性」が指摘するように、クライストはマリオネットと比較すると人間の身体には優雅さが欠けていると考えていた。それは人間には「意識作用が介入するために自らを飾りたてようと」する(p.65)ところがあるからであり、マリオネットの無心な運動の美しさが妨げられるからだというのだった。たしかに自意識にみちた人間の行動はぶざまにみえることある。クライストは人間が主体として行動することを放棄するとき、ある「逆説的な主体が、匿名のものとして出現する場」(p.66)を思い描いたに違いない。多くの人々が幼児期を黄金時代として思い描く傾向があるのも、同じ無意識的な心の動きによるものだろう。

鷲田清一「見えない衣」は下着とマネキンについての文章を集めたものだが、マネキンがあまりにヴァルネラブルであるために、ぼくたちは攻撃性を駆られる。マネキンは人間とは違って、「意のままに処理」できる存在にみえるために、「他人を疑似的に所有する」欲望をかき立てるのだ。同時にぼくたちは自分を危ういマネキンに同一化するとともに、「自分の傷つきやすさ」(p.370)に直面することになる。加虐性と自虐性が交錯するこの無意識的なメカニズムが、ヴァルネラビリティの本質にあるという論旨は鋭い。

松枝到「刺青、あるいは皮の衣の秘儀」は、処罰として、装飾として、愛情のしるしとして、権威の象徴として使われてきた刺青の不思議さを感じさせる。ときには刺青が「アイデンティティの保証であり、顔以上に顔であった」事例など、皮膚を顔よりも顔らしいものとして使ってきた伝統の深さを味あわせてくれる。

ル・コルビュジエモデュロールなど、建築が人間の身体を尺度として構想される事例は、複数の論文で考察されている。古代から、世界のほとんどすべての測定単位は、フィートや尺のように、人間の身体を基準として作られたものだった。そうしてみると、人間が居住する建築物に、身体が尺度して使われるようになるのも、ごく当然のことだろう。また建築論や従順な身体論などから、フーコーの考察の射程の広さを改めて感じさせられたことだった。

なお収録されている論文のリストをあげておく。

□序論 表象としての身体-身体のイメージとその演出 鷲田清一

第Ⅰ部 身体のアーキタイプ

□元型としての身体 河合俊雄

□ 絶対的な匿名性 松浦寿夫

□クロゼットの中の骸骨たち-一八世紀の解剖学における最初の女性骨格図像 ロンダ・シービンガー(本間直樹・森田登代子訳)

第Ⅱ部 顔の変幻

□顔の現象学-ジュゼッペ・アルチンボルド 小岸昭

□仮面と身体 吉田憲司

第Ⅲ部 皮膚と衣

□表象としての皮膚 谷川渥  皮膚という存在

□刺青、あるいは皮の衣の秘儀 松枝到

□消し去られる身体-アラブ・ムスリム女性をめぐる断章 大塚和夫

第Ⅳ部 身体の運動空間

□身体パフォーマンスの発生とストラクチャー 市川雅

□ブラック・イズ・ビューティフル-米国黒人の身体表現 辻信一

□建築と身体 角野幸博

第Ⅴ部 加工される身体

□見えない衣-下着という装置、マネキンという形象 鷲田清一

□ 矯正=直立化される身体-教育とその権力の歴史 ジョルジュ・ヴィガレロ(神田修悦訳)

カレイドスコープ

□身体ととけあう 深井晃子

書誌情報

■表象としての身体

鷲田清一野村雅一

■大修館書店

■2005.7

■429p ; 22cm

→紀伊國屋書店で購入