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『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦(法政大学出版局)

『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 2005年2月、竹山道雄ビルマの竪琴』の舞台となった降伏日本軍人の収容所のあったムドンを訪ねた。ミャンマー(旧ビルマ)の首都ヤンゴン(旧ラングーン)から車で10時間ほどのところにある。限られた時間で、収容所跡を確認することはできなかったが、戦後ビルマに留まることになった主人公の水島を想像させる「謎」の日本人がいたことを知った。終戦後、南の方からやってきたこの日本人医師は、ムドンに住みつき、数年前に亡くなったという。4人娘のうちのふたりに会うことができたが、実の娘でさえ、なぜ父親がムドンにやってきたのか、日本のどこの出身なのか、わからなかった。東南アジア各地で、いろいろな理由で現地に留まった「未帰還日本兵」の話を聞くことは、それほど珍しいことではない。因みに、降伏日本軍人は、日本が捕虜にかんする国際条約に調印していなかったために、国際法上「捕虜」とは認められなかった。


 映画「ビルマの竪琴」も観た。1956年と同じ監督市川崑、脚本和田夏十(監督の妻)で、85年にリメイクされたものだ。原作が児童文学として書かれたとはいえ、なんとものどかで、終戦から間もない47~48年に書かれたことが信じられなかった。はじめに「文部省特選」と大写しされたのが、白々しかった。実は、いま集中講義の最中で、学生に映画を観てもらいながら、この書評ブログの原稿を書いている。


 この作品をとりあげて、著者、馬場公彦はなにを言おうとしているのだろうか。「序章」でつぎのように説明している。「本書では、極力、同時代人の眼で『[ビルマの]竪琴』を読み解いていく方法を採ることになる。たとえ『竪琴』が戦後民主主義の名作と謳われようと、反戦平和の古典と謳われようと、それは後代による後知恵の解釈にすぎない。それどころか、『竪琴』は戦後民主主義的な時代状況のなかに投げ込まれていき、作者の竹山自身、この作品の読まれ方や扱われ方に当惑しあるいは翻弄されながら、ときには作者として応答責任に答えよ、との審問に晒されてきた。その審問は、『竪琴』が歴史的同時代の変容のなかでどう読みつがれ、読みかえられていったかの歴史性をも考察の射程に入れていくことを要求するし、その考察は『竪琴』というテキストの読みの可能性へと道を開くことになるだろう。竹山道雄と『ビルマの竪琴』。この何気ない人名と書名の組み合わせは、必然的に竹山を中心とする知識人が負った戦争体験の思想的意味と、戦後日本がたどった精神史をトレースする作業をともなうことになる」。


 著者は、『ビルマの竪琴』が「戦後最も早い時期に書かれたことの重みは受け止めておきたい」と評価し、「戦争小説と称される作品とは一線を画し」、「文学作品というよりは史実と個人的体験に忠実なドキュメンタリー」に通ずるものがあると位置づけている。そして、竹山の3つの層位から構成される戦争責任論を考察している。第1に「戦争指導者の政治的責任」、第2に「国民の戦争責任」、第3がもっとも強調された「竹山その人が該当する、戦争批判をしなかった知識人の不作為責任である」。そこには、旧制第一高等学校(現東京大学教養学部)のドイツ語教師だった竹山の「可愛い教え子たちが尊い生命と有為な前途を犠牲として捧げざるをえず、そのことになんら抵抗できなかったことの慚愧の念」があった。この3つの層位の責任論については、今日の社会にも通じるものがある。国家の地位が相対的に低下した今日、指導者だけに責任を負わせることが難しくなってきている。否、指導者が責任をとらなくなってきている。民主主義が大切といいながら、国民も責任を指導者に負わせ、責任をとろうとしない。それだけに、指導者や国民に、責任について考え、判断するだけの材料を提供する「知識人の責任」が大きくなってきていると言えるかもしれない。


 著者も、そのことを踏まえ、つぎのように結論している。「今の知識人は戦争責任の問題を時代遅れで副次的な問題として閑却している、などと言うつもりはない。だが、今の戦争責任論は、アジアという磁場に根を下ろしきってはおらず、ヨーロッパ戦線におけるナチス戦争犯罪ホロコーストといった問題から、視点を借用してきているような印象が拭えない。哲学や社会科学の立場からこの問題を考える知識人はアジアに対する土地勘が鈍いし、アジアや日本の歴史から考える知識人は、ヨーロッパの問題にも通用するようなメッセージを発言する営為がなおざりにされているような気がしてならない。戦争責任問題をめぐって、学問の専門分野の枠を脱しきれていないために、思想の域に到達していないのである」。


 『ビルマの竪琴』に描かれているビルマについては、お粗末であることがしばしば指摘されている。竹山は、ビルマに行ったことがなかった。日本・ビルマ関係史を専門とする根本敬東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)は、著者につぎのように語っている。「僧侶が竪琴で楽曲を奏でるのは破戒行為のはずだし、そもそもビルマの民族楽器である竪琴に、イギリスの歌曲の和音が奏でられるわけではありません。それに、上座部仏教では遺骨収集や墓葬・墓参には執着しないものです。ビルマ人を素朴な民として描くために身勝手な理想的仏教像を押しつけたり、当時強かった反日感情を無視していることも問題です。この作品は、竹山のビルマ文化に対する無知と無理解によって、戦後の日本人に誤ったビルマ認識とビルマ・イメージを固定化させてしまいました。この作品自体の価値自体、大きく損なわれたと言っていいでしょう」と手厳しい。しかし、著者の結論は、竹山のビルマにたいする一知半解を責める資格は、いまの日本の知識人にはないと言っているかのようだ。それにしても、日本人のアジア認識は依然低いままだ、と言っていいだろう。この『ビルマの竪琴』が日英和解の役に立っても、日本とアジアの和解に役立つような作品はなかなか登場しない。日英という帝国列強の戦争に巻き込まれたビルマ人の存在は、無視されたままだ。それでも、本書で、竹山の死後も、日中合作映画を作成して、日中和解に努力している人びとが紹介されていることは救いだ。和解までの地道な努力を惜しんではいけない。本書は、その努力を生むきっかけとなる1冊になると思った。


 本書を読んで、戦場としたアジアにたいする日本人の無知と楽観的な戦後が、終戦直後の知識人にあったことがよくわかった。現代の若者の無知と無理解を攻める資格が、戦争・戦後世代の知識人にないことがわかった。戦後の知識人が、依然として自国を中心に考え、自国民の慰霊と自国の発展を中心に考えていたことが、映画「ビルマの竪琴」でもよく描かれていた。その考えは、リメイクされた映画が公開された1985年まで通用し、「文部省特選」になったのだろう。しかし、もはや現代では通用しなくなっている。本書を「同時代人の眼で『[ビルマの]竪琴』を読み解いていく方法を採る」という著者の意図は、その意味でよく理解できる。


 映画を観た学生は、東南アジアのことを学んでいる学生がほとんどで、数人はビルマ語を専攻している。あらかじめ本書を紹介したこともあったが、この作品を評価しない、理解できない、という意見が多かった。戦争責任や戦後責任についてなぜ考えなければならないのかわからない世代が、東南アジアの言語や文化の学習を通じて、より客観的に「戦争」をみることができるようになってきている。これらの学生にたいして、わたしは「戦争責任や戦後責任は考えなくてもいい」と言っている。しかし、「ポスト戦後責任はある」、と言っている。それは、「いまを戦前にしない責任」である。「ポスト戦後責任」を考えることは、当然ポスト戦後へと続く「戦争責任・戦後責任」についての知識が必要だということがわかるだろう。「戦争責任・戦後責任」が目的ではなく、手段になったとき、ポスト戦後世代の日本の若者とほかのアジアの若者が、「戦争責任・戦後責任」を乗り越えて、友好関係を築いていってくれるものと信じている。著者やわたしようなその中間の世代の「知識人」は、そのための材料を提供する責任があるだろう。著者は、本書を通じて立派にその責任の一端を果たした。今度は、わたしの番だ。


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