『空間の生産』アンリ・ルフェーブル著、斎藤日出治訳(青木書店)
本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。
2005年11月10日、国営テレビ局フランス2に出演したサルコジ内相は、暴動に参加した移民出身の若者を「ごろつきだし、社会のくずだ」と発言した。なぜ、このような火に油を注ぐような発言をしたのか、疑問に思った人も多かったのではないだろうか。本書を読めば、その一端がわかるかもしれない。また、この書評ブログで2005年11月22日にとりあげたイレートが、アメリカで受けた大学院教育を「アメリカ流社会科学の頑なさと、ときとして、その無意味さに耐える数年」と評した意味もわかるかもしれない。
本書の著者略歴によると、著者(1901~90)は「フランスの哲学者、社会学者。公式的なマルクス主義にとらわれず、柔軟な視点で近代社会の全体像を把握する作業を1968年の五月革命後もつづけた成果が本書に凝縮されている」とある。本書初版は、1974年に発行され、本訳書は2000年に刊行された第四版の全訳である。まず、本書は、書かれた時代背景と著者がフランス人のマルクス主義者であるという理解を抜きにして、読んではいけない、と忠告しておく。
本書は、論理的構成をもって記述されているわけではなく、けっして読みやすいものではない。ⅠからⅦまでの表題のもとに、それぞれ長短12~30の「エッセイ」が雑然と列んでいる。それぞれの「エッセイ」には数字が振ってあるだけで、内容を示すものは何もない。それぞれ問題を設定し、一般に思われがちな結論を否定して、自説を披露するというのが一般的なパターンだが、なんのために議論をしているのかわからないものも多い。すでに議論したことの蒸し返しもあって、理解するのは容易いことではない。「生涯を通して七〇冊近い著書と三〇〇編の論文を著した」というが、本書からは思いついたことをどんどん書いていっただけという感じがする。
「解説」では、グローバリゼーションなど、先見性を評価することも書かれている。著者のいうグローバリゼーションは、近代の延長線上としての西洋化を基本にしているにすぎないのだろうか。それとも、今日に通ずるものなのだろうか。1970年代まで注目された著者が、90年代になって欧米で再評価されるようになってきたというが、むしろ80年代に評価されなかったことを考えるべきだろう。民族自決や国民統合がさかんに議論された時代から、グローバリゼーション、ディアスポラ、ナショナル・ヒストリーの否定、多文化主義、環境問題などが議論される時代へと変化したことが、評価されなくなった理由だろう。そして、再評価は、新しい議論の原点を求めて、「近代」とは何か、「資本主義」とは何か、が問われたためだろう。
本書は、すでに「近代」の限界が明らかになりはじめた時期に、いち早くそれに気づき、「近代」の超克のために「空間」という概念を持ち出したという点で、高く評価できるだろう。「社会空間の最初の基盤あるいは最初の土台は、自然であり」、その基盤が「完全に廃棄されたり消滅すること」なく、新たな「空間」が生産され、分裂・分離し、矛盾が生じてきた。その状況を克服するためには、「VI 空間の矛盾から差異の空間へ」と理解を深め、身体から生じてくる「空間の総体」を把握することだという。そして、「日常生活を変容させるための社会的な支持基盤として地球的規模の空間を創出する(あるいは生産する)こと、それは無数の可能性を切り開くことになる。近い将来においてそのような可能性を切り開くのは東洋である」「システムに類似したものとはまったく無縁なのである」と、本書を結んでいる。著者は、近代の諸科学にかわる新たな学際的・学融合的な科学を、「空間の生産」を分析・考察することによって求めたのである。そして、「リズム分析」が「空間の生産についての説明を最終的に仕上げてくれるものと期待」した。
それにしても、本書の全体像を示しているのであろう「Ⅰ 作品のデッサン」に続いて、「Ⅱ 社会空間」へと読み進んでいくうちに、だんだん腹が立ってきた。一言で言えば、本書は露骨なヨーロッパ中心史観、傲慢な人間中心主義で書かれているということである。本書の目的について、著者は「Ⅰ 作品のデッサン」の「10」の最後でつぎのように述べている。「空間に関して言うと、本書のねらいは、近代世界を説き明かす諸理念と諸提言をたがいに突き合わせることにある。たとえそれらの理念や提言が近代世界を支配していないとしても、この突き合わせは必要である。そして、これらの理念や提言を個々ばらばらの命題あるいは仮説としてあつかうのではなく、つまり微視的な視野での「思想」としてではなく、近代世界の端緒に横たわる前兆としてとりあつかわなければならない。これが空間に関する本書の構想である」と。「(社会)空間とは(社会的)生産物である」という著者は、「空間の生産」は近代をリードしたヨーロッパ人によってなされたもので、それは自然の克服によって達成されたという。そして、ヨーロッパ人によって植民地にされた地域の人びとが築いてきた歴史や文化を否定する記述が、随所に見え隠れする。たまにアジアにかんする記述があるが、ひどくお粗末である。その最たるものは、「タージマハールにおけるスルタン[オスマントルコ皇帝]の墓」だろう。ご存じの通り、タージ・マハールはインドのムガル帝国のシャー・ジャハーンが愛妃のために建てた廟である。[ ]内の訳注は、もっとお粗末である。スルタンはイスラーム諸国の王の通称であり、オスマン帝国はトルコ民族の国ではないから「オスマントルコ」とはよばない。
著者のようなアジアの知識がなく、ヨーロッパ中心史観の講義を聴かされたイレートのようなアジアからの留学生は、自国の歴史や文化の研究にまったく役に立たないことを学んだだけでなく、反発したことだろう。いっぽう、優越感を感じたフランス人は、同化政策に自信をもったことだろう。そのことが、フランスの学校でのイスラーム教徒女生徒のスカーフ着用禁止や、今回の暴動事件へと繋がっていったとは考えられないだろうか。サルコジ内相が著者のような考え方の下で教育を受けたのであれば、移民出身の若者を「ごろつきだし、社会のくずだ」と発言したこともわかるような気がする。
そのアジアにたいして知識のない著者が、最後に「可能性を切り開くのは東洋である」と結論しているのは、もうお笑いでしかない。さんざん西洋中心に語っていながら、その結論を西洋に求めることができず、執筆当時ベトナム戦争が終わろうとしていた「東洋」に、そして毛沢東主義に期待したフランス人マルクス主義者を、今日のわれわれはどう評価したらいいのだろうか。マルクス主義的知識がなく、学ぼうとも考えない研究者が多くなった状況で、どう理解したらいいのだろうか。
本書は、良きにつけ悪しきにつけ、1970年代という時代に、フランス人研究者がどのように近代を理解していたかがよくわかる「好著」である。しかし、著者の考えをいまの時代にまともに受け入れると、時代錯誤でトラブルの元になりかねない。「知識の宝庫」である本書から何が学べ、何が反面教師で、何がトンチンカンなのかが、充分にわかっている人以外は、読まないほうがいい。何が学べるかは、43頁におよぶ「解説」からわかるので、まず「解説」を読むことをお薦めする。もっとも、堂々めぐりする著者の冗舌な議論(おしゃべり)につきあうことができる忍耐のある人は、そうはいまいが・・・。