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『思考のフロンティア 暴力』上野成利(岩波書店)

思考のフロンティア 暴力

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 「思考のフロンティア」シリーズの本を、この書評ブログでとりあげるのも、何冊目になっただろうか。このようなシリーズでは、最初に「刊行にあたって」というようなシリーズの主旨が、それぞれの巻の冒頭にあることが多いのだが、本シリーズにはそれがない。それだけ、各巻の執筆者は自由に書けるわけだ。



 本書の著者、上野成利は、「あとがき」で本書の体裁が「「思考のフロンティア」というシリーズの趣旨にふさわしいかどうかわからない」と吐露している。その理由は、「ここには最新モードの思想などほとんど登場しない」からである。だが、「「フロンティア」とは本来、開拓地と未開拓地との境界領域を意味しているのだとすれば、何がどこまで開拓されているかを見極めることは不可欠の作業であろう。本書が一歩下がった「後衛」の位置に橋頭堡を築こうと考えたのも、故なきことではかならずしもない。もとより少なくとも現在の政治哲学の分野では、上記の思想家たち[H. アーレント、C. シュミット、W. ベンヤミン、M. ホルクハイマー、Th. W. アドルノら20世紀前半のドイツ語圏の思想家]のテクストを読みなおす作業はそれこそ最新モードの一つでもある」と、断言する。


 その裏付けは、「本書の内容の大部分は、ここ数年私が勤務校で行なってきた講義とほぼ同じものである」というあたりにありそうだ。著者は、「最新モード」が基本から出発することをよくわきまえているからこそ、教育においてあえて学生にウケがいい話題性を振りまくようなことをしていない。「学生の授業評価」などを気にした「人気教授」の「おもしろいが、頭になにも残らない」ような授業はしていないようだ。まずは、拍手を送りたい。


 さて、本書の内容であるが、それほどやさしいものではない。「難しいけれども面白い」「この先をもっと知りたい」という学生の声は、著者の授業を実際に受けなければわからないのかもしれない。本書で著者が問いただしたかったことは、「はじめに-ヤヌスとしての暴力-」の最後の方で、つぎのように述べられている。「21世紀になっても暴力の世紀は依然として続いている。それどころか暴力の応酬は限りなく昂進し、いっそう拡大しているような観さえある。しかも、近代の政治の文法に取って代わるような新たな文法は、いまなお見出されてはいない。こうしたなかで私たちに求められている作業とは、ゲヴァルトを自明の前提としてよりよき政治のありかたを探るだけでなく、ヴァイオレンスの次元へと問いを差し戻し、政治的なものの概念を根本から問いなおすことだろう」。


 この問いに接近するために、本書の構成は、つぎのようになっている。「第Ⅰ部「暴力の政治学」では、まずゲヴァルトとしての暴力に焦点を当て、国民国家や戦争という近代の政治現象のなかでいかなる暴力が作働してきたのか、そしてそれが20世紀になってどのように変容していったのかについて、おおまかな見取り図を提示したい。そのうえで第Ⅱ部「暴力の弁証法」では、ヴァイオレンスとしての暴力にあらためて目を向け、統御不可能な法外な暴力がいかにして権力装置の内部に回収されてしまうのかを問い、それを可能にする条件を暴力そのもののうちに探ってゆく。そして最後にこうした一連の考察をふまえて、暴力批判の論理をどのように構想すべきなのかについて、多少なりとも思考を巡らせたいと思う」。


 暴力の質も変化してきている。ブログのトラックバックに、醜い猥褻画像などを送りつけるという攻撃もある。迷惑メールの削除で1日を費やすこともある。相手が見えない陰湿な暴力だ。相手が見えないだけに、インターネットでは無責任な発言、読む人を傷つけ不愉快にさせるものが、否応なしで飛び込んでくる。「いじめ」と同じで、加害者が意識していない暴力もある。「統御不可能な暴力が席捲する世界」に、われわれはいま「どのように向きあってゆけばよい」のか、それを考える1書である。

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