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『シェバの女王-伝説の変容と歴史との交錯』蔀勇造(山川出版社)

シェバの女王-伝説の変容と歴史との交錯

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 2006年5月20日、映画「ダ・ヴィンチ・コード」が世界同時公開された。いたずら好きで謎のメッセージを作品に盛り込むことで知られるレオナルド・ダ・ヴィンチは、後世に格好の謎解きの楽しみを残したと言える。しかし、キリスト教を信仰する者にとっては、「フィクション」ではすまされない内容が含まれており、原書は世界各国で発禁になった。映画も上映を禁止されたり、年齢制限をされたりしている。この話、歴史研究にとって、たんに「フィクション」ですましていいものだろうか。


 フィクションとノン・フィクションの境目は、実に微妙だ。優れたフィクションには、現実では説明のしようのない「真実」が描かれていることがある。逆に、優れたノン・フィクションには、編集や効果などによって現実とは違う「嘘」がある。歴史には、つねに物語性がつきまとう。その語りの効果をあげるために編集・脚色され、しだいに元の歴史事実から遊離してひとり歩きし、後世に伝えられることがある。そのひとつの例が、本書でとりあげられた「シェバの女王(シバの女王)」の物語だ。


 著者の蔀勇造は、本書執筆の動機を「あとがき」で、「我々の歴史は、過去に起こったことだけでなく、起こりもしないのに人々が起こったと信じた出来事によっても動かされてきた。そう考えると、このようなありもしない事柄も、歴史研究の対象として結構重要なのではないかと思えてくる」と説明している。本書では、「歴史の研究といえば、過去に生起した事柄の真相を究明し、それが後の世に及ぼした影響について考察するのが、主たる内容である」という従来の考え方とは違う歴史的考察が加えられている。


 「シェバの女王」の伝説のはじまりは、「『旧訳聖書』に収められた「列王記上」の第一〇章、ならびに「歴代誌下」の第九章にみえる」逸話にある。その「『旧訳聖書』にシェバという国の所在地と女王の名が明記されていないことが、史実性の解明を妨げる一方で、後世この逸話をもとに各地で多様な説話が生まれる要因となった」。本書では、伝説のあらましを説明した後、まず「ユダヤイスラーム、キリストの三つの宗教を信奉する人々の間で、この伝説がどのようにかたちを変えたかを順次みてい」き、「ついで、この伝説がもっとも大きな影響力をもつにいたったエチオピアの状況を詳しくみたうえで、これがカリブ海のジャマイカに飛び火した経緯を検討」し、「エチオピアの人々やジャマイカラスタファリアンにとって、シェバの女王伝説はもはや単なる物語ではなく、彼らの歴史の中核を成す」にいたったことを明らかにしていく。


 本書を読むと、伝説がつくられ、人びとに受け入れられていく様子から、それぞれの地域性や時代性がわかってくる。そこには、地域や時代を超えて、歴史とはなにかを考えさせるものがある。人びとが歴史に関心を示すのは、過去の真実を知りたいからだけではない。歴史を語ることで、その地域・社会でその時代を生きる人びとにとって大切ななにかを語りたかったからである。その歴史は、真実でなくても構わない。そして、その伝説は必要に応じて、変形して伝えられていく。もちろん、必要がなくなり、人びとに忘れさられ、消えていった物語も無数にある。それだけに、今日まで語り継がれる物語の意味は大きい。


 このように史実ではない物語から歴史を読みとることが重要なら、近代の実証主義的文献史学で史料の信憑性を考証し、「嘘」の多い史料を排除したことは、たいへん無駄であっただけでなく、歴史の奥深さに気づかなかったことになる。とくに途上国の口述史料は、先進国側に残る文献史料と矛盾した「事実」とは異なることが語られているとして、軽視されるか無視されてきた。そのため、一方的に先進国中心の歴史が語られ、あるべき世界史が語られず、「知の帝国」の世界史が語られることになった。本書が示した「伝説と歴史の交錯」は、そのような「知の帝国」主義からの歴史の解放をも示唆している。そして、近代の史料考証を超えて、「正確さ」に欠けるとして二級以下の扱いを受けてきた史料を読み解く力を歴史研究者がもつことの重要性を教えてくれる。そうなると、考察すべき文献史料が格段に増え、逆説的に文献史学はますます重要性を増すことになる。さらに、これまた逆説的に、文献史学にこだわることが歴史研究の幅を狭め、学問的世界からも現実的世界からも孤立することになる。


 本書には、近代に創られた歴史像を変えるためのヒントがいたるところに隠されている。それを読者が読みとることができるか、歴史研究という「謎解き」のはじまりである。

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