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『シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀』ねじめ正一(集英社文庫)

シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀

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 「いま、手元に『紅毛交接図』なる妖しげな絵図をひろげて、異装の男女が荒々しい房事にふける情景を鑑賞している。本書の冒頭にあるシーンをそのまま描いた図を、運よく書棚から拾い上げられたおかげで、本書を読むことが一段と楽しくなった。それにしても、長崎絵師をあつかったこの物語の各章を、縁のある実在の絵によって括ろうという発想は、じつに洒落ているではないか。この小説の楽しみ方は、章題に示された絵図をどこぞから探し出してきて、傍に置きながら読むことだぞ、とヒントを与えられているようなものだ」。荒俣宏は文庫版の「解説-本書と作者に関する余計なお話」の冒頭で、このように述べている。


 実証を基本とする研究者としては、川原慶賀が描いた絵図を1枚もあげることなく話を進めるこの小説の事実関係に、疑いをもってしまう。しかし、「だから、研究者のやる仕事は、事実から遠のくのだ!」という著者、ねじめ正一の声が聞こえてきそうだ。研究者にはわからない「事実」を、臨場感をもって描くのが小説家の仕事だ。その意味で、川原慶賀はいい題材だった。数多くの絵図を残し、シーボルトと密接な関係があったにもかかわらず、低い身分の町絵師だったせいか、生没年さえはっきりしない「謎」の人物だからだ。


 ここに2005年11月3日に開館した長崎歴史文化博物館の特別展にさいして発行された長崎歴史文化博物館・ライデン国立民族学博物館共同企画『長崎大万華鏡-近世日蘭交流の華 長崎-』がある。この図録には、川原慶賀の絵図も多数収められている。枕絵はないが、たしかに本書を読んだ後に見ると、本書をもういちど楽しめる。川原慶賀については、つぎのような説明がある。「江戸時代後期の長崎派の絵師。オランダ人医師・シーボルトに重用され、彼の科学的態度に基づいた日本研究のために、膨大な記録画的作品を残した。唐絵目利である石崎融思と関係があり、フランス人デ・フィレニューフェにも洋風表現を学んだ」。この小説には登場しないデ・フィレニューフェという洋風画の「師匠」がいたことがわかる。


 本図録所収の「日本人の一生」では、「出産」から「墓参り」まで23枚の川原慶賀の作品を楽しむことができる。川原慶賀の作品の大半は、「長崎の歳時記や職人、生活風俗、図譜など、日本研究のための記録画」であった。その「まじめな記録画」をよく見ると、吹き出してしまう「いたずら」に気づく。「葬迎(1)」のお寺の門の前に6人の僧侶がおり、その横に「不許輩酒肉入山門」の文字が見える。「墓参り」では、墓石に「酔酒玄吐行」「淫好助兵衛腎張」と書いてある。こんなところから、ねじめ正一は川原慶賀像を得て、小説の主人公にしようと思ったのかもしれない。


 本小説ほど「事実」は伝わってこないかもしれないが、すこし確実な川原慶賀の人物像は、図録所収の論文のひとつである岡泰正「川原慶賀とデ・フィレニューフェ-石橋助左衛門の肖像図をめぐって-」からわかる。

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