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『日本語が亡びるとき』水村美苗(筑摩書房)

日本語が亡びるとき

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「「帰国」を説明する」

 依然として書店の平積みコーナーを占拠し続ける本書。つい最近も「ユリイカ」で水村特集が組まれたりして、日本文学と英語のかかわりにこんなみんなが関心を持つのは良いことであるなあ、と筆者などは職業柄つい軽薄に喜んでしまうのだが、実際に読んでみると、けっこう変な本である。そして、たぶん、そこがこの本の持ち味。

 出だしは明らかに私小説である。

ユリイカ」のインタビューでも話題になっているが、日本での自律神経失調症に悩む生活から、アイオワ大ワークショップでのややすさんだ滞在生活へと話が展開するあたり、日本語論や英語教育論とは無縁、むしろいつもの水村節を、さらにきわどく押し進めたような自虐の語りで、病の匂いが強く漂う。

 ところがふつうに読んでいくと、それが一見冷静な現状分析に引き継がれ、日本近代文学の誕生の過程、「国語」概念の発生、「普遍語」の支配といった、この二、三十年のアカデミズムでも盛んに取り上げられてきた話題――言語の政治性の問題――へとつながってくる。そうした議論を踏まえつつ、最後の二章では日本近代文学の今後の見通しと、英語教育法についての具体的な提案とが、これまでよりも著者の個人的な思いを強く乗せて語られるというのが全体像である。すでに多くの書評の出た本であり、書評空間でも大竹昭子氏による力のこもった書評があるので、粗筋紹介はこれぐらいにしておく。

 筆者がふだん活動しているのは英語教育や英文学などにかかわる業界である。その一角では水村の素描してみせた「国語」問題や英語教育の方法について、それこそ重箱の隅をつつくような議論が延々とされてきた。おそらくそういう世界に生きてきた人たちからすると、水村の議論にはアラや誤認なども多く含まれている。筆者の耳に入ってくる感想も、ネガティヴなものの方が多いようだ。

 筆者が本書を手に取ったのは、すでに宴の後、とまでは言わないまでも、本書をめぐる熱狂がある程度終息してからであったので、本書と直に向き合うというよりは、本書を取り巻く状況とセットで対面したような気がする。そのおかげもあってか、この本の中に言語論や英語教育論ばかりを読むこともなかったし、日本文学論中心の本とも思わなかった。

 この本は「論」ではない。水村美苗そのものなのである。だから、本書がベストセラーになったのだとしたら、水村美苗そのものを人々が読もうとした、という他はない。英語教育界の重鎮が、まったく同じタイトルで同じ内容の、そしてもう少しリサーチを細かくしてある本を書いても、まあ、見向きもされなかっただろう(などという比喩が滑稽なことは承知で言うが)。

 なぜ水村美苗でなければならなかったのか。

 水村美苗はふつうの小説家ではない。日本近代文学の中ではかなりの異端。それは彼女が、独特な「中産階級性」を担っているからである。しかもそれは「日本人の9割が中流意識」とか「庶民の感覚」とか言うときの「中」とはちがう。むしろもっとガードを固めた中流とでもいうのか、しかし教養主義的でもあり、さらに――ここがもっとも大事なのだが――そこに欧米駐在員文化の香りが強くする。

 水村は近現代日本文学がながらく排除してきた「帰国子女的なもの」を具現しているのだ。このあたりは皮肉というほかはないが、水村がここまで強烈に日本文学にノスタルジアを抱けるのは、そこから排除されてきたことを実感しているからだろう。水村のこれまでの作品(とくに『私小説』以降)を読むとわかるように、そこにはわざと言葉をずらしたりわからないふりをしたりする文壇臭のようなものは希薄で、まるでエンターテイメント系の作家のような鼻通りのいい文章でありながら、その一方でどこか「文学」に対する信頼ものぞいているという印象がある。その下敷きにあるのは、欧米19世紀のメロドラマ的な語り口で、そのやや過剰なアピール感は、自然主義系を主流とする近現代日本文学とはそりが合わない。それに加えての、日本独特の「帰国子女文化」なのである。

「帰国子女文化」は実に厄介なものである。それは、欧米に憧れて西洋語を学んだり、その文物に憧れて購入したり、あるいは留学したりするといった、近代日本の立身出世的価値観の根底にある「田舎→東京→外国」という憧憬の眼差しを無化してしまうものなのだ。吃音をきかせ、標準日本語では語らないことこそを旗に掲げるような、自然主義風の土の匂いのする貧乏や落胆や不幸の作品化は、どこかで「田舎→東京→外国」というベクトルを意識してこそ機能する。しかし、帰国子女という妙な存在は、顔は「日本人」であるにもかかわらず、しごくあっさりと、まるでランドセルでも担ぐみたいに西欧を背負っている。

 はじめから「西洋」を背負っているということが、どれだけ平凡で身近なことであるか。何しろ幼い頃から大量の牛乳を飲んだりマーマイトをパンに塗って食べたりするのが当たり前、お札を勘定するときに思わず英語が出たりするし、発音もいい。でも、英文和訳と文法では日本育ちの「純ジャパ」にかなわない。両親は教育熱心で、家庭では一昔前の丁寧な日本語が話されていたりするが、根にあるのはあくまで禁欲・勤勉を旨とする企業文化で、文学的頽廃とは縁がない…とまでいくと、やや型にはめ過ぎかもしれないが、いずれにしても帰国子女文化が学校教育の中でも、「どうしたもんかねえ」という眼差しを向けられるようになって久しい。「帰国子女って、かえって英語できないんだよねえ」なんて言われたりする。

 そしてさらにひねりがある。水村美苗は帰国子女ですらないのである。彼女がアメリカに渡ったのはすでに12歳のとき。遅すぎた帰国子女だった。だから簡単に「帰国」することもできない。いわゆる帰国子女がぐっと増えるのは水村以降の世代。水村は典型的な帰国子女とは違い、すでに物心ついてから、しかし、まだ幼い年でアメリカに行った。英語の習得では苦労したのに、その後の教育は米国に残って受けたりするのである。今では帰国子女どころか高校あたりからわざわざ留学して、十年後に大学院を終えて帰ってくると日本語がしゃべれなくなっている、という人も多くなった。ある意味で「帰国子女」という言葉そのものが死語となりつつあるのかもしれない。また、帰国子女の間でも世代間の軋轢が生じているのだろう。帰国子女第一世代(もしくはプレ帰国子女)の水村が、本書の中でも、能天気に子供をアメリカンスクールに送る親たちに苛立ちを隠さず、その一方で英語エリート教育を唱えたりするあたりには、複雑なものを感じる。

 そういう意味で、筆者は本書を、現役小説家による現代日本文学に対する応援歌としてではなく、「帰国子女文化」の一角にいながら、日本的純文学のど真ん中に切りこみ、しかしその中に安住の地を見つけることもなく、ひたすら孤独な作業を強いられてきたひとりの小説家の、自分自身のための「説明書」と読んだ。日本近代とはこういうものなのだ、と。そこへ「帰国する」とはこういうことなのだ、と。これだけ「声」のように聞こえる、フィクションともエッセーともつかない本というのも珍しい。アマゾン書評のひとつに「最後はほとんど絶叫に近い」との批判があったが、「絶叫」でもいいじゃないか、と思う。それで良い小説が書けるなら。

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