書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『森崎和江コレクション 精神史の旅』森崎和江(藤原書店)

森崎和江コレクション 精神史の旅

→紀伊國屋書店で購入

 独特の文章で、人生を描きつづける森崎和江さんのコレクションが、昨年11月から毎月刊行されている。当初うかがっていた全8巻の選集ではなく、「すべて作品単位にばらし、また単行本未収録エッセイも考慮に入れて」、「森崎和江の精神の歴史を辿る旅」を試みる構成になっている。


 著者が伝えたかったことは、案内パンフレットにある「若い読者へ」と題したつぎのメッセージによくあらわれている。「昭和期を生きた植民二世の私には、戦後の方言界は迷路。女は商品でした。早稲田在学中の弟が自死。闇に閉ざされた私は、幼いいのちに教えられ、炭坑の地下労働者に学びつつ、列島各地の集落で働く人々に接しながら七ころび八起きで、生きることとは何かを自問し、日本の女へと生き直すべく努めました」。「今や二十一世紀。世代を越えた絆を大切にしながら、次世代孫世代の若い皆さまの未来への、苦悩を越えた開花を祈っています」。


 著者の「若い読者へ」のメッセージは、だんだん強くなっていったように思える。高等学校国語科用『精選現代文(改訂版)』(教育出版、2002年)に収録された「生きつづけるものへ」の「作品解題」では、つぎのように説明されている。「ここに収めた文章は、戦前を植民地朝鮮で育った筆者が、戦後五十年にあたってその苦渋の足跡を回想した著書の巻頭に置かれたもの。少女時代に「二つのことば」の中で生まれ育った筆者はその原点に立って、「二つのこころ」に自分を引き裂こうとするものを厳しく見据えようとしている。そのまなざしは、国家・民族の過去と未来、孫たちの時代へと注がれていく」。それだけ、著者は現在と未来に不安を感じているのだろう。


 森崎和江さんの人となり、生きざまについては、友人・知人たちが書いている各巻の「解説」「月報」を読めばさらによくわかる。わたしも、第4巻の「月報」につぎのような駄文を書いた。



時空を超えて


 歴史研究を専門とするわたしにとって、対象とする時代や社会の常識をつかむことが、最初の仕事になる。しかし、わたしたちは、どうしても、いまの社会の常識というフィルターでものごとを観てしまう。とくに、わたしのように一九八〇年前後に近代科学を基本として大学教育を受けた者は、近代の常識が邪魔をしてしまう。そこで、わたしは、過去なら、その時代、その社会の常識がわかっている人が書いたものを探す。フィールドなら、その社会を熟知している人の助言にしたがって行動をする。自分で勝手に判断し行動しては、フィリピン南部ミンダナオ島のような紛争地帯をフィールドにしている者にとって、文字通り命取りになる。


 ところが、森崎さんの書いたものを読むと、どうだ。知らぬ間に、明治時代の「からゆきさん」(海外の娼楼で働く娼妓)といっしょに座り込んで話したり、家族舟に漁師の家族といっしょに乗ったりしている。時も空間も超えて、その社会に溶け込んでいる森崎さんの姿が、読者の目に無意識にはいってくる。

 森崎さんの本を最初に読んだのは学生のころで、『からゆきさん』(一九七六年)だった。当時は、女性の地位向上が盛んに唱えられ、その時流に乗るかのように「からゆきさん」も注目を集めた。老齢にさしかかった元「からゆきさん」を、故郷の天草や島原、マレー半島など海外に訪ねて、ノンフィクションが書かれ、ドキュメンタリーが制作され、映画も放映された。しかし、「からゆきさん」を「底辺」に位置づけたものには、違和感を覚えた。女性の地位向上も、男性と同等の権利を求めるのではなく、男性を含めた人間の地位向上に結びつかなければ、一時的なものに終わってしまう。「からゆきさん」を「底辺」に位置づけたり、特別な存在として観るようでは、探し求める社会はみえてこない。


 森崎さんの『からゆきさん』に、時流に乗る派手さはなかった。明治時代の福岡や長崎の新聞をていねいに読み、元「からゆきさん」を養母にもつ友人から広がる時空を超えた「からゆきさん」の世界に、自分自身をすべり込ませ、それを日常のなかに描いていく。のちに、わたしも長崎県立図書館などに行って、明治時代の新聞を読み漁った。全四面の新聞の第三面は、文字通り三面記事で当時の日常を知る宝庫だった。森崎さんの「不思議さ」は、このような地道な作業にあることを、わたし自身体験した。しかし、追体験はできても、森崎さんのように時空を超えることは、わたしにはできない。

 ・・・


 [続きは、2月28日発行の第4巻の「月報」をご覧ください。]

→紀伊國屋書店で購入