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『パル判事-インド・ナショナリズムと東京裁判』中里成章(岩波新書)

パル判事-インド・ナショナリズムと東京裁判

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 著者、中里成章は、ベンガル史研究者である。日本と縁の深い3人のインド人(ラシュ・ビハリ・ボース、スバス・チャンドラ・ボース、ラダビノド・パル)はいずれもベンガル人で、「三人とも日本の右寄りの論者のお気に入りの人物であり、彼らに関して日本で行われている研究に問題がないとは言えない」という。


 パル判事は、「東京裁判でインド代表判事を務め、A級戦犯の被告全員が無罪であるとする反対意見書を提出した人として知られる」。そのパル判事を、「日本の右寄りの論者」はつぎのように語ってきた、と著者はいう。「東京裁判論争が続くなかで、全員無罪のパル意見書は、東京裁判批判あるいは東京裁判史観批判に恰好の論拠を与えるものとして利用されてきた。いまではラダビノド・パルという一人のインド人法律家は、東京裁判論争ひいては歴史認識をめぐる論争において、一方の側を代表するシンボル的存在に祭り上げられるにいたっている。パルはそうされるに足る見識をもつ高潔な人間として描かれ、時にはガンディーやネルーと並べて語られることさえある」。


 著者は、「パル意見書は裁判の意見書の形式で書かれてはいるが、実は政治性を強く帯びた文書」で、「何故パルは政治的なのか、いかなる意味で政治的なのかが問題である」という。そして、「それに答えるには、インド・ナショナリズムの思想と運動、政党政治の駆け引き、大学の学内政治、インド法曹界の人脈等々に対して、パルという人物がどういう位置にあったのかを解明しなければならない」と、インド近現代史、とくにベンガルの知識が必要だという。そのパルの「実像」を追求するために、著者は「インド近現代史研究者が一般的に使っている実証史学の手法」、つまり「インタビュー(聞き取り調査)、文書館での公文書や私文書の調査、現地語資料の調査、新聞・雑誌記事の調査などを愚直に積み重ねた」。


 本書は、「序章」、5章、「おわりに」からなる。第1~4章では、パルの生涯を丁寧にインド近現代史のなかで辿っている。そして、第5章「パル神話の形成」で、「なぜ「実像」から懸け離れた「神話」が創造され、流通することになったのか」を明らかにしようとした。


 その結果、伝記的部分については、「おわりに-神話化を超えて」で、つぎのようにまとめた。「パルはある哲学や思想を信奉して人生の指針としたり、ある特定のイデオロギーや政党の支持者となって世の中に働きかけようとするタイプの人間ではなかった。パルはガンディー主義者ではなかったし、主要なインド独立運動のいずれにも参加したことはなく、政党の党員になったこともなかった。しかしそのことは、パルが政治や思想と無縁の人間だったことを意味するものではない。パルは広い意味でのナショナリストであり、多様なインド・ナショナリズムの潮流のなかでは、保守ないし右寄りの立場に共感を抱いていた。具体的に言えば、パルの経歴を検討してみて分かるのは、右翼のヒンドゥー大協会、保守本流の会議派右派、それからファシズムコミュニズムの間で揺れるチャンドラ・ボースに近い立ち位置をとっていたことである。インドの独立前はヒンドゥー大協会とチャンドラ・ボースの周辺に位置し、独立後は会議派右派の周縁部に立場をシフトさせていった」。


 神話化にかんしては、第5章冒頭で、「現時点で言えるのはだいたい次のようなことである」と結論した。「意見書の内容は初めの頃はあまり世に知られることがなく、一群の人たちの意識的な活動があって初めて、日本社会に浸透していった。彼らは意見書を出版し、あるいは、パル本人を日本に招いて、意見書の浸透を図った。東京裁判批判を目的とする出版と招聘、これら二つの活動に関わった人たちが、その過程でパル神話を創り出していったと考えられる。そこには意識的なイメージ作りもあり、無意識の誤解や誤りもあった」。「彼らの動きは早くも東京裁判の直後に始まった。一九五〇年前後の頃は彼らは少人数で、A級戦犯本人、その弁護人及び元大アジア主義者からなり、周辺に元ファシストの姿もあった。六〇年代になると、元軍人、国際法学者(大学教授)、昭和史研究者、法務省の官僚などが加わり、日本のエスタブリッシュメントも巻き込んだ人的ネットワークが形成されるようになった。両時期を通じて、新聞記者などジャーナリストが果たした役割にも無視できないものがあった。ネットワーク拡大の背後には、A級戦犯など元戦争指導者の復権という現実があった」。


 パルの神話化は、1966年10月に訪日し勳1等瑞宝章を受章した翌年、67年1月の死後も続いた。早くも亡くなった年の10月には、1952年と53年の2度、パルを日本に招いた中心人物の下中彌三郎平凡社創業者、1878-1961)とともに、2人の生涯を記念する碑が箱根芦ノ湖畔に建てられ、そのそばに1975年に「パール下中記念館」がオープンした。1997年にはインド独立50周年を記念して京都霊山護国神社に「パール博士顕彰碑」(「パール博士顕彰碑建立委員会」委員長、瀬島龍三)、2005年には靖国神社に「パール博士顕彰碑」が建立された。そのほか、愛国顕彰ホームページ(http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-pal.htm)によると、富山県護国神社に「パール判事の碑」、広島市の本照寺に「パール博士 大亜細亜悲願之碑」がある。それぞれの碑文は、以下の通りである。


 これら直後、1960年代、近年、それぞれの時期の「右寄り」の動きは、アジア太平洋戦争にかんして、いろいろな意味で共通にみられ、多くの日本人はそれに関心を示さず、結果として容認してきたがゆえに、今日「歴史認識問題」として残されることになった。また、2国間関係史は、近代において、それぞれ当事国のナショナル・ヒストリーに利用されるかたちで語られてきた。その「神話」が、現代に通用しないことが明らかになってきて、反動的な動きもみられる。著者は、これからの国際社会を見すえて、「おわりに」をつぎのように結んでいる。「日本で行われてきた東京裁判をめぐる議論を国際社会に向かって開き、平和構築のための国際的な協同作業に繋げてゆくことを考えるべきときが来ているのではなかろうか」。


 本書にたいして、さまざまな意見があるだろう。まずは、「愚直に積み重ねた結果の報告」である本書を、主義主張を超えて、インド近現代史と日本近現代史の文脈で、著者目線で理解することからはじめたい。つぎに、東京裁判のもつ歴史性、国際性に注目したい。そして、平和構築のために「神話」からの解放について考えたい。そのことは、「あとがき」にあるパル判事の息子が、著者のインタビューにたいして、互いの見解が違うにもかかわらず、「ひとたび心を許すと、率直に思い出を語り貴重な資料を提供してくれた」こととおおいに関係している。見解や意見の違いを乗り越えて、真摯に歴史と向き合うことが、平和構築につながるという思いを、パル判事の息子は著者と共有していることを感じとったのだろう。


       *       *       *


靖國神社(東京都千代田区)「パール博士顕彰碑」

碑文

時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には

その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに

そのところを変えることを要求するであろう


京都霊山護國神社京都府京都市東山区)「パール博士顕彰碑」

碑文

当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、十九四六年、東京に於いて開廷された「極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。


○富山縣護國神社富山県富山市)「パール判事の碑」

碑文

不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい


○本照寺 (広島県広島市中区)「パール博士 大亜細亜悲願之碑

経緯

昭和25年11月、広島を訪れたパール博士は広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に刻まれた碑文「過ちは繰り返しませぬ」を見て驚きかつ激怒した。碑文の責任者である広島市長と対談を行うなどした後、本照寺の住職・筧 義章に請われ一編の詩を執筆、その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれた。

碑文

激動し 変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が万斛の想いを抱いて死んでいった

しかし大地深く打ちこまれた悲願は消えない

抑圧されたアジア解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ

ああ 真理よ!

あなたはわが心の中にある その啓示に従って われは進む


○パール下中記念館(神奈川県足柄下郡箱根町)「パール博士顕彰碑」

碑文

すべてのものをこえて 人間こそは真実である このうえのものはない

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